第974号『「何者」かになるということ』

1983年36歳で急逝した写真家牛腸茂雄さんと、同僚として同じ職場で席を並べていたことがある。

昨夜、後輩のfacebookで「牛腸茂雄写真展」が、渋谷PARCOで開催されていたことを知った。調べてみると、10月30日のNHK「日曜美術館」でも『友よ 写真よ 写真家 牛腸茂雄との日々』のタイトルで放送されていた。残念なことに、どちらも気が付かず見逃してしまった。

因みに、番組タイトルに続くリード文はこう記されている。「彼は自分の人生の残り時間を常に意識して、先を急ぐように生きていた」。家族や友人、近所の子供など、見知らぬ人々のさりげないポートレートで知られる写真家・牛腸茂雄(ごちょう・しげお)。肉体的なハンディを抱えながら創作を続け、36歳でこの世を去った。死後40年、再評価の機運が高まる中、学生時代からの友人だった写真家・三浦和人は、この夏、牛腸のネガのプリントに挑んだ。浮かび上がる牛腸の「まなざし」とは。

死後10年近く経った1992年に、写真批評家飯沢耕太郎編集による雑誌「デジャヴュ」で、牛腸茂雄の特集が組まれた。以来、さまざまなメディアで紹介され、2001年にはユーロスペースで佐藤真監督によるドキュメント映画「SELF AND OTEHERS」も上映された。ミニシアター系としては異例の興行収益だった。また、2003年5月24日から7月21日には、東京国立近代美術館にて牛腸茂雄展が開催。そして今回、再び注目を浴びている。

・胸椎カリエスによって36歳で早世した天才写真家。
・桑沢デザイン研究所での恩師、大辻清司との運命的な出会い。
・肉体的なハンディキャップにより、むしろ自己を表現する欲望から開放され、他者を観察することによって自己の存在を知覚するという循環にアイデンティティーを見出すことになった写真家。

牛腸の写真は、その作り手の意図のなかで支配され作品化されたものでもなければ、写し出された素材のあり方を軸に作品にしたものでもなく、いわばそのどちらでもないところに浮遊する。こうした見方が、牛腸茂雄の作品をめぐる大方の解説である。

仕事部屋に写真を数枚飾っている。その中に牛腸さんの作品がある。グラウンドに走り去っていく子供達の後姿を写したもので、写真集「SELF AND OTEHERS」のなかの1点である。たしか、1977年12月だったと記憶している。 初めての個展が、新宿ミノルタフォトスペースで行われることになり、そのポスターを制作したお礼にいただいた。彼自身がプリントし、裏にサインもしてくれた。

彼とは時々、仕事帰り二人でお茶を飲みながら話した。ユーモアがあり、機知に富んでいた。そしてやわらかい笑顔がいまでも脳裏に残っている。あのころ、盛んに自分の作品集を残したいと話していたことを覚えている。そして突然の退職。気楽な先生稼業を捨ててまで、なぜ・・・。なんだか駄々っ子のように問い詰めた。しかし、僕の「なぜ、辞めるの」との問いにはついに答えてくれなかった。

いま振り返れば分かることであるが、彼は自分に残された時間と実現したいことを見据え、自らの作品集を作ることに集中する道を選んだのだ。幼いころに患ったカリエスとその後、病がもたらした日々の体調との戦い、それも終わりが近いことを感じていたのかもしれない。そのリアルを自認する恐怖との戦いの連続だったであろう。そして、そこから逃げずに立ち向かうことを決めた。

その一方で、僕はなんだかひとり取り残された気分になったことを覚えている。でも、それは自分が「何者」で何がしたいのかわからず立ち尽くし、 とりあえず居心地のいいところにいることでごまかしていた自分が惨めに思えただけのことであった。

「何者」かになりたいと思い続けているうちは「何者」にもなれない。「何者」かになるということは、覚悟を持って「何者」かに相応しい内実を持つことである。「SELF AND OTEHERS」まさしくそのことを、目の前で実証してくれたのが牛腸茂雄さんだった。

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