朝は掃除から始まる。玄関・台所・トイレ・仕事場と、かなり丁寧に履き拭き、そして磨く。こうして、自分の住まいと仕事場を綺麗にする。
この習いは、時計職人だった父が、毎朝、仕事場の埃も塵も履き磨き清めるている姿を見て育ったことにあるのかもしれない。その、あまりに真剣な掃除をする姿に、時計という精密機器を扱うに相応しい綺麗な場というだけではない、なにかまるで武術道場を清めているような気迫さえ感じた。
どうやら僕たち日本人は、ものを磨いたり、部屋を掃除するという行為に、綺麗にするという目的を達成するための手段だけにとどまらず、心の錆や埃をも取り去るための精神的な所作のようなものも含んでいると、捉えているのではないか。
例えば、アメリカと日本での野球観戦後に、その違いが気になった。ロスアンジェルスにあるドジャースであれ、アナハイムにあるエンゼルスのボールパークであれ、試合終了時の足元には、ピーナツの殻の山、そして紙くずの散乱。(プロバスケットボール、ロスアンジェルスレーカーズのホーム、ステープルセンターでも同じであった)それに比べ日本の球場、例えば地元ベイスターズの本拠地横浜スタジアムでの試合後の綺麗さといったらない。それは、野球とベースボールの違いといったら、こじつけに過ぎるだろうか。よしんば、大谷翔平選手がグラウンドに落ちているゴミを拾う行動は理解できても、それに続く大リーグプレーヤーがいないことでも分かるように、マインド(ゴミを拾うことは俺の仕事じゃない)の違いは明らかではないか。掃除や手入れを単に綺麗にする、といった目的だけに留まらない日本と、そうではない国の文化の違いを感じた。
では、その一番の違いはなにか?それは、ゴールをどう捉えるか、ということではないか。達成する目標(勝利や利益)があり、そこに到達することが欧米(アングロ・サクソン)の文化だとするならば、到達する目標と掃除することや手入れをすることの間には、なんの因果関係もないし、無駄でさえある。だから、彼らは当然のこととして分業化しクリーニングとして外注する。いやむしろ、掃除をしたらクリーニングをしてくれる人の仕事を奪ってしまうことになると、心配さえしている。
でも僕たちは、それを無駄だとは思っていない。なぜなら、掃除という働きを通し日常のなかでゴミを払い埃りを拭くことは、同時に心の錆を磨き心を清め、自らが成長するための行いでもあると捉えているからだ。いま時代の空気を席巻しているコスパ、タイパとは真逆の所作である。
指針にしている言葉がある。坂村真民氏の「鈍刀を磨く」という詩である。
鈍刀を磨く 坂村真民
鈍刀をいくら磨いても
無駄なことだというが
何もそんなことばに耳を借す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかもしれないが
磨く本人が変わってくる
つまり刀がすまぬと言いながら
磨く本人を光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙の世界だ
だからせっせと磨くのだ
鈍刀というのは切れ味のよくない刀である。研いでも光らない。みんなは研いでも無駄だというが、そんな言葉に耳を借さなくていい。せっせと磨いても刀は光らないが、磨く本人が光ってくる。才能がないからなどと言わずに細々でも続ける。
僕が大切にしている「ことだま」である。
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