先週、仏事があり帰省していた。いつもなら事が済んだらそそくさと東京に戻るのだが、今回は宿を取り数日留まることにした。この間、旧友たちと津軽の味と酒を堪能したり、高校時代に遊んだ弘前の街を散策したり、いまは誰も住んでいない実家の前まで行ってもみた。通りに面した店舗のシャッターは降りている。裏に回ってみたが、母屋にも人の気配はまったくない。父、母、そして家業を継いだ弟もすでに亡くなり、故郷には直接僕とつながる血縁者はもう誰もいない。そしてこの建物もいずれは朽ち果てるか、取り壊されるのだろう。
高校卒業後、ずっと東京、横浜で暮らしてきた。学生時代も、就職してからも、夏の数日ほんの短い間しか実家には帰らなかった。故郷が嫌だったわけではない。ただただ、東京での生活や仕事が面白かった。振り返ってみれば、父も母も弟とも家族の死は、僕に別れの覚悟も余韻も与えてくれる間もなく、スッと何処か別の場所に移動したかのように消えてしまった。だからなのか、いまも時々生きているのではないかと思えてしまうことがある。おかしな物言いだが、父、母、弟のことが過去形にならない。
「過去とは何か?」。この難題に、ひとつの答えを出した哲学者が大森荘蔵だ。ここからは、受け売りである。例えば「昨夜、嵐で雨が降った」という過去をイメージできるか?。目を閉じてそのシーンを思い浮かべてみる。すると、雨はいままさに、風とともにざーざーと進行形で「降っている」ではないか。では、この「降っている」状況を過去にするにはどうすればいいのか。それは「降った」と言い換えるしかないのだ。つまり、僕たちは言葉で「降った」という過去を体験するのだ。
僕たちは、過去から現在、そして未来へと線上を移動するかの如く生きているわけではない。常にいま、この時を生きているのだ。ただ、あまりに膨大な数のいまがあり、そのいちいちに拘泥していられない。もし仮のそのいちいちにこだわり、引っかかっていたら、おそらく人は一日ともたず半狂乱になってしまうだろう。だから、どうでもいいことは、とりあえず過去形にして後ろに押しやるという便法をとっているにすぎない。
見方を変えるとすれば、本当に大切なことは、いつまでも過去にはならないということだ。思い浮かべてみればすぐにわかる。死んだはずの父と母、そして弟が僕の頭の中でしゃべり、笑い、生きている。「雪っこ降ったらみんなして、温泉にでもいごうか」と、おやじとおふくろ、そして弟が笑顔で話している姿が、いま目の前にはっきりと僕には見えるのだから。