残暑が厳しいが、確実に夏が過ぎてゆく。
この時期、なんとなく焦り、次第に老いて行くことへの不安が心をよぎる。
どんなに充実した過ごし方をしたとしても、夏の終わりは厭だ。
例えるなら「青春時代」の、やりたいことをやり残した残滓。
だから、いつもなら、なんだか物憂い気分で見送るのだが、今年はいつになく気分が良い。
特別なことは何もしていない。
海外旅行に行ったわけでもないし、キャンプで火を囲んだでもない。
夏休みに遊んだことを並べれば、若手歌舞伎役者、尾上松也のお芝居を観て、孫に会い、横浜美術館で開催の「奈良美智展」へ行き、山手公園プールで泳ぎ、漱石の「こころ」を遅読した。
そして、アトリエ兼自宅の横浜周辺をぶらぶらしながら、日々を過ごした。
ある日、いつものように散歩をしていると、道ばたに咲く向日葵草が枯れていることに気が付いた。
数日前まで、夏を独り占めするかのように咲き誇っていた向日葵草が枯れ、その傍に新しく白い花が咲き始めているのを見た。
その時、なるほどと得心した。
季節は常に同じところに留まることはない。
蕾は咲き、そして枯れ、種となる。
日は照り、風が吹き、雲は流れ、雨となる。
雨は川の流れとなり、海へとそそがれ、雲となる。
一時として同じものはない。
すべては先へ先へと新しく変わり続けて行く。
これまで、若さこそが一番の価値であり、残された時間を我がモノとして、最高に楽しまなければ損だと思って過ごしてきた。
それでも、いつも、もの足りていないように感じた。
季節も時間も人も、生々流転する。
変わらないことに拘泥するのではなく、変わることを由とする。
そう思うと、有り難いことに、前向きな気持ちでいることが出来た。
足りなさも、物憂い気分も、不安もそれはそれとして、いまこの時を楽しむことができるのだ。
夏をこんなにも前向きに過ごせたことが、なにより嬉しい。
さて、来年の夏とはどんなふうに巡り会えるのか、いまから楽しみである。