第453回「卑怯」の定義

写真(ロイター)

我が家でテレビがなくなってから、今世界中を巻き込んでいるサッカーワールドカップ杯も全く別世界の話となりました。
今朝Facebookで、昨日のポーランド戦の日本の戦い方についての議論が轟々と沸き起こっているのを見て、何があったかを知るという程度のものです。
サッカーは他のスポーツに比べて、ナショナリズムが色濃く出る特性があるなと思いつつ、議論の対象になっている戦い方について感じるのは「卑怯」という概念でした。

ルールのもとに行われるスポーツにおいては、そのルールを破らずにフェアなプレイを心がける「スポーツマンシップ」を根底に成立しています。
しかしこれはスポーツに限ったことではなく、社会生活全般に言えることだと私は思います。

「勝てば官軍」ではないですが「勝ちさえすればやり方はどんなに汚くても、どんなに卑怯でもいい」という風潮が、以前に比べて世界的に蔓延してきている危機感を感じるのです。

なぜなら、多くの人々が暮らす現代社会において、そのルールなど無視して勝ちさえすればいい、という「卑怯」な考えが今の日本にまかり通っていると思うからです。

奇しくも昨日は、過重な労働を強いると懸念されている「働き方改革法案」、日本の産業全体に影響を与える「TPP関連法案」がワールドカップ日本戦で熱中するなか可決されました。

世界経済の潮流に追いつけ追い越せ、勝ちさえすればやり方はどうでもいい、負けるやつらが悪いのだ、例えそれがウソに塗り固められた卑怯なものであっても、といわんばかりの日本の流れはとどまるところを知りません。

そんなモヤモヤのなか、SNSのtwitterに、こんなtweetを発見しました。

Retweeted Poko/ぽっちゃり女性専門写真家 (@Poko_IDOHORININ):

別にサッカーはどうでもいいし、ルールの中で結果出しているのだから良いと思うけど、あんな卑怯な政治家たちを許容している国民のくせに卑怯なサッカーを批判している人達が沢山いて、その矛盾というか、幼稚さに頭に来ている。安倍政権を許容しているなら、どんなサッカーだって許容してやれよ。

まさに私の心を代弁しているようなこのtweetに対して、みなさんはどう感じますか?
先日私の人生の大先輩と話した時に聞いた「この国全体に卑怯が満ちている」という言葉が耳に残っています。

今の日本にとって「卑怯の定義」とはなんなのか。
それも時代の流れに合わせてアップデートしなければならないものなのでしょうか。