わかりにくいということは、必ずしも悪いことではない。
1980年代、池袋西武百貨店にあった西武美術館は、現代美術の聖地といっても過言ではなかった。
そこでは、例えば、脂肪・蜜蝋・フェルトなど独特な素材を用いたドイツの作家、ヨーゼフ・ボイス展での作品に説得力を感じた。
さらに、高さわずか60センチの陶製の小便器に「泉」と題した作品でも知られるマルセル・デュシャン展での「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」。
この、大ガラス作品の細部の繊細さと、野放図な構図に圧倒された。
そのどれもが、決してわかりやすいものではなかった。
いや、むしろ、理解しうる回路がないことに戸惑った。
難解な作品の極めつけを挙げるならば、スタンリー・キューブリック監督作品、映画「2001年宇宙の旅」がそれである。
平たい石盤のような謎の物体「モノリス」を巡る展開ではあるが、特に主人公もなく、それぞれのシーンも特別な関連性が乏しい、そして、これといったナレーションもない。
これはドキュメンタリーか、あるいは何かの環境映像ではないかとさえ思った。
それにしても、冒頭、古代の人猿が骨を頭上高く放り投げると、星屑のひろがる天空に浮かぶ宇宙船へと変わっていくシーン。
漆黒の宇宙に浮いた宇宙船が、ヨハン・シュトラウス2世作曲「美しき青きドナウ」のワルツに乗って表れたときの新鮮な驚きは、いまだに忘れられない。
難解な映画や音楽、絵画などに接したとき、人はどんな反応をするか。
まずは、自分の身の回りにある既に知っている何かとの類似、類型を探す。
それでも解明出来ないとき、「これは何だろう?」という畏怖の念を持つ。
そして、頭をフルに稼働させ、感覚を最大限に広げる。
すると、圧倒されたり、心地よいと感じたり、新鮮だと受け止めたりしたことがらの中に、自分の感受性の幅が確かに広がったと感じる瞬間に出会う。
なにも、わかりやすく、大衆的なものを否定しているのではない。
ただ、優れて手応えのある本物は、往々にしてわかりにくく、受け入れにくいことが多い。
随分と永きにわたり、甘く、柔らかく、可愛いく、わかりやすいもので埋め尽くされてきた。
そろそろ、苦く、渋く、固く、わかりにくいものも人は求めはじめているのではないか。