第792号『十五夜』

【うさぎの饅頭】

十五夜の月は雲に阻まれ見えなかったが、井上荒野さんの
『ベーコン』の一節を思い出した。

”十五夜の月、つまり旧暦の八月十五日にのぼる月は、満月
とはかぎらない。
昔のひとが、八月十五日を「中秋の名月」としたのは、満
月よりも満月に少し欠ける月のほうが美しいことを知って
いたからだ。”
井上荒野著『ベーコン』より

余談だが、書店で書棚を流し見ていたとき、井上荒野とい
う名前に目が止まり、この本を購入した。
すごい名前だ。
ペンネームかと思ったが、本名だ。
井上荒野、「こうや」ではなく「あらの」とよぶ。
調べてみると、父上が作家の井上光晴氏だった。

余談の余談になる。
彼の半生を綴ったドキュメント映画、原一男監督作品『全身
小説家』。
この作品は原監督の傑作『ゆきゆきて、神軍』に勝るとも劣
らない代表作の1つである。

この映画の中で驚いたシーンがある。
末期の癌に冒された井上光晴。
彼の住まいのあった荻窪の自宅に、瀬戸内寂聴さんが訪れた。
寂聴さんに伴われ、現れた一人の医師。
なんと、高校時代の友人Y君のお兄様(当時、弘前大学の医学
部生だった)ではないか。

長い余談はここまで。

昔の人は、満月よりも満月に少し欠ける月のほうが美しいこと
を知っていたという話を聴いて、もう一つのエピソードを思い
出した。

茶道の祖、千利休の逸話だ。
弟子が庭の掃除をしていた。
ひとつ残らず落ち葉を掃き清め、きれいに掃除をすませた。
ところが利休は、まだ掃除は終わってはいないだろうと言う。
そして、おもむろに自ら庭に立ち、せっかくきれいになった
庭に数枚の落ち葉を、はらはらと散らせたという。

雑草も落ち葉も何ひとつ残さず、きれいに箒の目を立てた庭
は美しい。
しかし、その美しさの中に数枚の枯れ葉が落ちているところ
に、得も言われぬ自然の風情が醸し出される。

人の気持ちもこれと似ている。
自分にも他人にも完全を求めれば、おのずとギスギスする。
完全で自(力)立したものこそが、良しとされる昨今である
が、不完全で他力であることの良さもある。

先人たちは、その道理を知っていた。
足りないと思うものの中にこそ、足り得るを知ることを。