知人の結婚式に招かれた。
お祝い金を包むのに少し迷った。
「1万円では少ないが3万円では出しすぎだ、2万円くらいが手ごろなんだけど結婚式での偶数はまずいしな。」と
「自分は、欲望などという利己的なものに判断基準を置いていない。むしろ総意としての社会通念に従っているのだから間違っていない。」
こうして大概、姑息ではあるが居心地を保障された場所にいたがる。
マイケル・ムーア監督の映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』(2002年/カナダ)はアメリカの「銃問題」「人種問題」「情報操作」など、あたかも正当性があるかのように提示された「社会通念」を剥ぎ取っていく。
この映画は1999年4月、コロラド州リトルトンのコロンバイン高校で起きた高校生による銃乱射事件を縦糸に、「アメリカそのもの」への「問」を横糸に織り込んだドキュメンタリーである。
例えば 自分の居住区を守るために銃を必要とするアメリカ人の社会通念に対し、アメリカ同様に銃所持大国でありながら銃犯罪率が極めて低いカナダを取材する。
実際、ムーア監督自身が住宅地で次々と家々のドアを開けて行き「鍵を閉めないカナダ=銃は居住区を守るための道具ではなかった」を実証する。(けっこう笑えるシーンです)
また、事件の被害者となった2人のコロンバイン高校生と共にKマート本社に「弾丸販売中止」を提案しに行く。
(犯人は弾丸をKマートで購入)
スーパーマーケットに肉や魚と並んで弾丸を売るというのは常識的なことなのかという問い。
そして、ついにはKマート側に「弾丸販売中止」を採用させる。
さらに、銃を持つことは憲法で保障されていると言い逃れに終始するチャールトン・ヘストン(俳優/全米ライフル協会会長)へのシンプルで強烈なインタビュー。
前述のチャールトン・ヘストン、過激なアニメで話題となった「サウス・パーク」の原作者マット・ストーン、そしてマリリン・ マンソンへのインタビュー、多くのインタビューの中でもマンソン(神を冒涜する悪魔崇拝的な音楽であると非難をうけているミュージシャン)が最も誠実な、そして真っ当な回答をしていたのが印象的だった。
「コロンバイン事件の高校生犯人ふたりは確かにマリリン・マンソンの音楽を愛好していた、しかしなぜマンソンだけが逆風の中に立たされ、事件当日の早朝に彼らが遊んでいたボウリングは非難されないのか?」
「もしマリリン・マンソンのライブを禁止するのなら、なぜボウリングも禁止しないのか」
マンソンはインタビューに答えて言う。
「メディアは恐怖と消費の一大キャンペーンを展開している。そしてこのキャンペーンは、人々の恐怖を煽っている。」
「そしてそのことによって消費を喚起させ、また恐怖心が人を銃にも向かわせるのだ」と
コロンバイン事件の当日、それはコソボ紛争における最大の爆撃がアメリカ軍によって決行された日でもあった。
アメリカという国が、これまで他国への軍事介入という名の国家暴力を行ってきた数々の凄惨な戦闘シーンが映し出されるなか、ルイ・アームストロングの名曲「WHAT A WONDERFUL WORLD」が流れる。
映像とかけ離れた美しいこの曲は監督からの皮肉のメッセージなのか、それとも鎮魂歌か。
ともあれ、ムーア監督は巧妙に組み立てられた「社会通念」に対して「なぜ?」という疑問を「シンプル」にかつ「徹底的」に問いかける。
それは居心地のいい場所にいることで「なぜ?」という言葉を封印している僕たちへの問いかけのようにも思えた。