時々、「おそらく、いまある東京の街と風景を50年後、あるいは100年後の人たちに伝えることは出来ないのではないか。」と思うことがある。
事務所のある神田から、銀座まで歩いて30~40分ほどである。
だから、大概、電車を使わず歩く。
そして、街の風景を歩く速さで眺めながら楽しむ。
千疋屋、三越、東急百貨店跡、丸の内、このところ、日本橋界隈をはじめ東京都内は建設ラッシュである。
高さや様々な規制が緩やかになり、建設業者にとって、やりたい放題の好条件の時だとも聞く。
これでは、泡沫の果てに喘ぐ建設業への徳政令の1つかと疑いたくもなる。
そして、そのリニューアルのサイクルも年々早まっている。
ともあれ、いまは工事用の鉄板に囲まれ、その姿は見えないが、あらかじめ短命を背負わされた神殿と見紛うばかりの建造物が次々と登場するのであろう。
しかし、その時、以前の建物もその界隈もどのような姿であったかなど、記憶しているものなど誰もいない。
記憶を消す街、東京。
最近、学生時代の友人Mから一枚の写真がEメールに添付し送られてきた。
そこには、ほとんど廃墟と化した一軒の家が写し出されている。
その写真の下には「八王子、火の車跡」と記されている。
大学2年の夏休み、恩師の柏木博先生と、八王子にあった遊郭跡のサーべィをした。
ある大手建設会社の社内報に掲載するためである。
「放浪記」の作家、林芙美子も一時期いたというこの遊廓は八王子横山町の北、浅川を背にした「田町」にあった。
生糸が日本の輸出産業の花形として君臨していた明治30 年頃にこの街は誕生した。
国道16号線(八王子横浜街道・八王子日光街道)と国道20号線(甲州街道)の結線点にある八王子は、武州、上州、甲州から集められた生糸の相場を決める市場があった。
そして、桐生、伊勢崎、甲州、八王子の商人たちが夜の接待に利用していたのがこの遊廓である。
わたしたちが調査した時は、ほとんど人気もない寂れた街と化していた。
その妓楼跡の1階部分に「火の車」という、なんとも言いえて妙なラーメン屋があった。
その店主にお願いし、内部を撮影することが出来た。
明かり取りとして機能していたのであろう、真ん中に吹き抜けと小さな中庭がある。
それを取り囲むようにして回廊があり、障子で仕切られた4畳半の小部屋が十数室、1階と2階に並んでいた。
中庭に降り立つと、なんだかガランとした空間に放り出されたような気分になった。
そしてしばらくすると、ほんの数十年前まで、ここは籠あるいは牢獄として女たちに嘆きと苦しみを与え、男と女の営みや、笑いや悲しみが渦巻いてたであろう喧騒が聞こえてきそうであった。
それは、生きられた建造物だけがもつ記憶の痕跡のようなものである。
たしかに、ここに人々は息づいていたとでもいうように。
してみれば誰の記憶にも残らず、語り継ぐこともできない神殿などより、「八王子、遊郭跡」の廃墟と化したこの獄舎は、むしろ幸せな建造物といえるのかもしれない。