周知の事実ではあるが、右席に紅梅、左席に白梅を配している尾形光琳の傑作、国宝『紅白梅図屏風』の構図は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』から得たものである。
http://www.moa-inter.or.jp/japanese/setsugekka/setsu-pic07.html
その宗達の『風神雷神図屏風』は右席に風神を左席に雷神を配している。
http://www.kyohaku.go.jp/meihin/kaiga/kinsei/mht70j.htm
地に金箔を敷き、葉の緑青と花の群青のわずか2色で豪奢、洗練、洒脱な世界を見事なまでに作り上げた作品『燕子花図屏風』http://www.nezu-muse.or.jp/syuuzou/kaiga/10301.htmlをはじめ『群鶴図屏風』『八橋蒔絵硯箱』など、評価の高い作品を作りだした光琳は42歳の時、京での高名をひっさげて大名のお抱え絵師として江戸に出てきた。
しかし、例えば狩野探幽の『竹虎図襖』などに代表される武家好みの勇壮果敢な絵からは程遠い画風であり、それゆえ評判がいまひとつであったという。
どうにも居心地の悪い江戸から京都に戻り、再びアトリエを構えた。
そして光琳がまず実行したことは、『松島図屏風』や『風神雷神図屏風』など俵屋宗達の徹底的な模写であった。
画学生が最初に行う訓練といえばデッサンと模写である。
その模写を、である。
しかも、なんとその時、光琳、齢52歳であった。
江戸元禄期、52歳といえばもはや高齢、人生の残り時間を考えれば焦る気持ちもあっただろう。
すでに功なり名を上げているにもかかわらず、なぜいまさら模写などに没頭したのか、と随分と長いこと疑問に思っていた。
「それ知ってる、知ってる」とは、人の話を聞きたくない時に出る代表的なことばである。
なんのことはない半端な、いもプライドである。
そして、この言葉を発して耳のシャッターを閉じる。
この現象を「バカの壁」と言う、と最近本で読んだ。
翻って、知りたければ、聞く、あるいは調べる。
もっと知りたければ分析する。
そして、それが本物を掴み取るための早道でもある。
時間の使い方を知っている者は、考えることによって確かに成果をあげる。
だから、光琳は行動する前に立ち止まり考えた。
考えうる限りの問題の処理について、体系的かつ徹底的に探求するために模写という分析方法をとったのだ。
宗達を乗り越えるために。
しかし、右席に紅梅を左席に白梅を配置しただけでは宗達を越えることはできない。
そうして、辿り着いた一つのカタチ、それが「紅白梅図屏風」の中央に配した川である。
大きな一本の黒々とうねり流れる川を紅梅と白梅、二曲一隻の屏風中央に置いたことで、明暗、陰陽、老若、寒暖、すべてが正しく一つの旋律に織り成された。
こうして、光琳の最大にして最後の傑作は生まれた。
自分の全生命を賭けても、残したいと願う光琳の強い信念の前には、つまならいプライドなどなんの意味もなかったことをいまなら少し理解できる。
そして、自分のなかにも存在する「知ってる」という名の「ばかの壁」を取り払われないまでも、出来うる限り低くはしたい。