第101号『始まりの時』

『声を出して読みたい日本語』(草思社)の著書で一躍脚光を浴びた斎藤孝氏の『身体感覚を取り戻す』(NHK ブックス)によれば、いまの50代60代の世代は大人に対抗する若者という役割を担って登場した世代であり、その彼ら自身が親になったとき、それまでの親や大人が継承していた伝統的なあり方を担う構えに入りにくかったという。
さらには「腰を据える」「肚(はら)を決める」など日本の伝統的な身体文化である<腰肚文化>としての中心感覚を失ったとも言及している。

たしかに、ビートルズを聴き、ジーンズをはき、それまでの既成の権威に対して対抗(カウンター)することで自分を体現してきた。
そうして、大人がつくった社会の枠組みから自分をいかに解放していくのかを追い求めた世代でもある。

桜が散るこの春、同世代の友人の幾人かがそれぞれ勤めていた職場を去った。

昨今の職場事情もあり、幾分早くはあるが、僕らの世代も世間的には第一線からごく普通に退く年齢になってきた。
その記念パーティに臨席し、彼らのスピーチを聞きながら、かつて同じような退職の催しで見た先輩たちの気配と違うことに気が行った。
皆、存外に若々しいのである。
去るには、まだあまりに早い、といった感があるのだ。

去るということは、これまでの立場を失うことでもある。
だから、去った後、羨ましがれられ、恵まれた存在になることは、まずない。

例えば、それが生え抜きで終わりを迎えようが、数度の転職の果てであろうが、いずれにしても概ね、これまで自己の存在証明を保障してきた場所から、その保障が必ずしも定かではない場へと移動することを余儀なくされる。

そして、彼らはその引きぎわにこれまでの自分との切り結びを絶つための言葉を発する。

ある者は饒舌に、ある者は沈黙という形で。

なぜならば、各々が引き受けなければならないこれからの長い時間を肯定する「ことば」がどうしても必要であるからだと思う。

しかし、僕たちは去るための「ことば」と、去った後の「生き方」の事例をいまだ知らない。
老後ということばも、人生五十年という生き方も、どうにも馴染まない。

それは戦後、対抗文化(カウンターカルチャー)を手に入れた世代に待ち受けていた必然の末路だったのかもしれない。
まさしく、中心を失い、周辺に生きてきた世代である僕たちはこれからそれぞれが、その身丈に合った人生の後半の設計図を描かなければならないのだろう。

散りぎわを美しいと感じることのできる僕たちは、去りぎわも見苦しいものにしたくはない。

だから、このファンサイト通信101号は自分の去りぎわを見つけるための始まりにしようと思う。
終わりから振り返って見たとき、あれが始まりだったと。
また1から始まる。

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