昨年、秋、パリ郊外のアリン・ワロン・ドーベルビリエ高校で、スカーフを着用していたアルマさんと姉のリラさんが退学処分になった。
フランスではいま公立学校内での、イスラム教徒の女子生徒にスカーフ着用を禁じる法案の是非が議論を呼んでいる。
イスラム教徒の女性にとり、スカーフを被ることは巡礼と同じ宗教義務である。
この問題が表面化したのは1989年、イスラム教徒の中学生がスカーフを着用して登校したことから始まる。
それ以来、フランス社会において国と宗教と個人のあり方を問う難題として燻り続けている。
フランスは本来、国家と個人が「国民」という概念で直接結びついている「共和主義」の国である。
1789年のフランス革命はそれまでの君主制だけではなく、その君主制を守護してきたカソリック教との戦いの中で形成されたもである。
それ故、イギリスやアメリカと違い、政治と宗教の間に距離を置いている。
フランス国立高等研究院「非宗教性」歴史・社会学研究室、ジャン・ボベロ氏によれば、今日のフランスにおける「非宗教性」には
1.社会、国がすべての宗教規範から独立
2.国が信仰の自由を保障
3.諸宗教が平等
この3つの側面を持つと言及している。
しかし、ここ数年で500万人を超えるイスラム移民が定住するようになり、公立学校でスカーフ着用を禁止する法案が出てきた。
なぜ、たかがスカーフ着用が脅威と感じられるのか?
なぜならば、欧州内でイスラム教徒を中心に国家と個人の中間に位置する宗教・民族的な集団や共同体の利益を優先する「共同主義」があきらかに台頭し始めているからである。
どのような社会であれ、常にある種の「偏向」は芽吹く。
それは、その社会にとって基本的な「ものの見方」であり、変えようのない原理だからこそ、無視しえないほど厄介なものとなる。
故に、スカーフ着用に固守することも、それを阻止することも・・・。
人間はみな、正義が絶対であると信じるとき、視界が急に狭くなる。
まして、それが善意や信条から生まれたものであれば、なおさらである。
善意に満ち、信条に固い人は得がたい宝である。
しかしながら、善意や信条を確信している集団の心理は底暗い。
フランスの女子高校生がスカーフを着用したために退学したことなど、日本からみれば遥か彼方の議論であり、なんの関係もない問題でもある。
しかし、この国にも早晩、避けようのない問題として、移民政策が浮上してくることは間違いない。
その時、「偏向」を持ちつつも、「他者」と共生することが僕にできるか?
かつて、この国で起きた中国人や朝鮮人にたいする迫害や差別といった悲劇を繰り返さないためにも、他人に同調することを求めず、自分の頭で考え、自分の足で立ち、そうして、他人もそうであることを認めることができるだろうか?
その手がかりは、どうやら自分が自分自身であることを、自分の責任で引き受けることの中にありそうだ。