第180号『無邪気な邪悪さ』

【リズ】
【リズ】

車で20分ほどのところにショッピングモールがある。
その一角にペットショプがあり、格段に動物好きなわけでもないが、時々、なにとはなく覗く。

ガラスケースの檻に入れられた子犬や子猫を眺めていると、回りから「かわいい」という声が漏れ聞こえる。
目がくりくりとしているとか、毛がふさふさしているとか、よちよちした歩き方とか・・・。
たしかに、そのしぐさをみていると「かわいい」。
そして、無邪気なやさしさがわき、癒されるなにかを感じる。

しかし、こうしたしぐさの一つ一つを挙げても、「かわいい」という概念の証明にはならない。
それが証拠に、たとえば近所を散歩していて、時おり見かける、野良猫が生んだ子猫は不潔な対象物として忌み
嫌われているし、やたらと吠える犬にも嫌悪さえ感じる。
そのどれもが、くりくりとした目と、ふさふさとした毛を持ち、よちよちとした歩き方をしていてもである。
なぜなら、「かわいい」とは感受性の問題であり、確固とした根拠を必要としない情緒的な言葉でもあるからだ。
いいかえれば、根拠も理由もなく、責任も義務もなく、社会性も利害もない存在を私たちは「かわいい」といっているのだ。

どんな悪さをしたか記憶に無いが、子どものころ、ひどく母に叱られたことがある。
母は川で朱色のおまるに乗って流れていたところを拾って来た子どもだと言い、おしおきに家の裏手にあった薄暗い倉庫に半日ほど入れられたことがある。
きついお灸を据えるつもりでの一言でしかなかったのだが、その倉庫に、まさしく朱色のおまるがあり、私は拾われた子どもではないかと自らの出生に思い悩んだことがある。
いまとなっては笑い話である。

だれしも子どもの頃一度や二度、親に愛されていないのではないかと思ったことがあるだろう。
親も、四六時中、子どものことを思っているわけにもいかないし、時に我が子であってもかわいくないと思うこともある。
だからといって、子どもを捨てるわけでもない。
概ね、皆、その時々に子どもとの距離や思いに折り合いをつけ帳尻を合わせているのだと思う。
しかし、子どもには怒りを露にした親の不条理を読み解く義務はないし、親に恐怖や嫌悪を感じるだけである。
それでも、大人の子どもに対する「かわいい」か「かわいくない」かの評価は決定的なものになることを子どもたちは本能的に知っている。
だからこそ大人の顔色を伺っているのだ。
もし、自分が愛されていないとしたら、と。

ほんの数週間前、新聞で「かわいくない」という理由だけで食事を与えられず衰弱死した子どもの記事を読んだ。
いま「かわいい」という無邪気な邪悪さを生み続けることばが日本の子どもたちを覆っている。

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