第30号『流れはスモールタウン?』

フリーターの特権として気侭に気分晴らしの散策に郊外に出向くことがあります。
これといって目的があるわけではないのですが、多少は何か理由づけをして出掛けるわけです。例えば小京都を申請した辺鄙な街とか、歴史を売る小江戸とか、わずかに残った、または放置されたままの自然や田舎を売りにしているところとかで、いわゆる観光資源があまりないところがしゃにむに知恵を絞ってなにかをやろうとしているところが目的地。訪ねてみればおそらくがっかりするところうだけれど、まあとにかくそうした努力に乗っていく、そんな半日旅行です。
そこで感じることですが、行く先々で感じることはクルマによる行動範囲の拡大がもたらす生活圏の拡散・希薄化です。そのいい例が商店街の衰退、そして地域の独自性の喪失です。
さらに悪いことには集客熱心、地域開発に熱心な所ほど、クルマの利便性をより活かす方向で町おこし、地域おこしが行われていることです。その結果、どの街の顔も同じ、どの街も生活者の顔が見えなくなってきてしまっています。
だから徒歩での旅人にとっては、不便でしかも面白もおかしくもないことになります。
また地域の住民にとっても折角、工夫したのにその甲斐が認めて貰えない。
つまりは努力とお金の無駄使いではないかとも思いますね。
ある社会工学に造詣の深い人からの話ですが、最近、アメリカではスモールタウン建設のラッシュだそうです。それはベビーブーマーとして一世代を画した世代が、高齢世代に突入し生活の再構築を志向している所為で、また、高齢者にとっての便利さ、快適さを求める結果、街のサイズ見直し、サービス機能のコンパクト化、高密度化が求められているからではないかと思われます。
日本は、ご承知の通り高齢者社会の先端にあります。しかし発想は旧来以前、まだまだ「おおきいことはいいことだ」が常識であり、「縮」志向は異端のようです。
しかし。一部の流通の経営者が言うごとく「消費の現場ではいまや脱量発想が基調」かもしれません。
小さいこと、顔の見えるホスピタリティが資源となりつつあることを信じて日本流スモールタウンの提案が欲しい・・・。
以上、冷夏不景気のなか、ステレオ・タイプの小旅行をしつつの繰り言です。

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