タシケントの中心からクルマで15分くらい、有名なチョルソバザールの近くに「旧い街」と呼ばれる地域があります。
狭い汚い迷路のような路地が入り組んだ地域で白褐色の土煉瓦で囲われた住居が連なった一角。美しいタシケントの街とは対照的な一見スラムかと思える佇まいとも言っても過言ではありません。通常の観光客なら方向感覚が狂って迷ってしまうことでしょうし、ちょっと不気味で腰が引ける場所でもあります。
以前、ここを訪れたときこの街を流れる灌漑用水路を辿っていると、とある家の門口からから少女と幼い子供達が出てきて「見に来てもいいよ」と親しげに塀の中に招じ入れてくれました。まさに「ラッキー」でした。
中に入ると、およそ50坪くらいの中庭がありプールを中心にそれを囲んでの白柳や桑の木々があり、家族の空間とそれに付随した縁側で構成された住まいが庭に向かってコの字型に開いていました。塀の中では外見とは違った思いがけない豊かな生活がありました。
流石に住まいには足を踏み入れませんでしたが、家電製品を始めとして調度品や敷物などから豊かな暮らしぶりは窺い知れました。
その後、この迷路の街については好奇心レベルですが、関心を抱いていました。
実はこの街こそウズベキスタンばかりか、シルクロードのオアシス都市生活の原風景であり、人々の暮らしと伝統の基礎、さらには人々のアイデンティティの根っこだったのです。
そして最近知ったのですが、この生活様式は、ソ連が支配する以前の19世紀には、最も強い社会単位としてあったもので「マッハラ」と呼ばれる共同体だそうです。
しかも、この街は、「近代的な都市」の生活振りに抗して、住民が進んで守ってきた生活空間で、あの過酷な共産主義の中にあって、バザールと同様破壊されずに今日まで保たれてきたと言うのですから、オアシスの民のしたたかさには驚かされます。
このマッハラについては、いまウズベキスタン独立後、実は色々な研究がなされているようですが、私が興味を持つのは、この共同体が、政治や法的規制の合間を縫うようにして機能する、相互の交流と緊密な相互扶助に基づく生きた人的ネットワークらしい、ということです。
今回でもタシケンターレ08で参加したアーティストの一人が私達一行と離れて別の街区に迷い込み、偶然、結婚式の饗宴に出会い、参加させて貰ったとのことです。このことは、異教徒や外部のものでも「来るモノ拒まず」のマッハラ住民の懐の広さを象徴するように思えます。こうしたことはおめでた事などの饗宴に限らず日常の生活にもあることだそうで、日用品の貸し借り、緊急時の助け合い、子供や老人の介護などなど互酬の繋がりが錯綜しているとのことで、その繋がりは地域を越えて広がっていると言われています。
マッハラほどのスケールではありませんが、東京の、かつての下町の「熊さん、八さん」が生きた人情を価値とした長屋暮らしにちょっと似ている気がします。
いま、20世紀のパラダイムが崩壊し、この変化に伴って、多くの悲劇が生まれています。これへの処方箋は私如きが発想できるはずもありませんが、しかし、思うことの一つは、やはり人への「情」=EMPATHYから発想した互助のネットワークの再生といういうことではないでしょうか?
「Change」は必須ですが、この変化を動かす核は何か?が問題でしょう。
その大きな重い問題へのカギを旧い町で出会った子供達の笑顔に求めたい気がしました。
*マッハラについては「慣習経済と市場・開発」樋渡雅人著(東京大学出版会)を参考にしました。