桜の季節になると、なんとも複雑な気持ちになります。
三寒四温、移りゆく季節の中で、別れや出会いがあり、
何とも言い難い気分になるのです。
7年前の4月5日に母親が他界したことも一つの要因かもしれません。
花見の場所取りしながら、「ラッスンゴレライ・・・」、
余興の練習をする新しいスーツ姿を横目に、舞い散る花弁の色のように、
淡いハッキリとしない心境に陥ります。
ここまで書けば、心に病を抱えている複雑な人物像に思われてしまうでしょうが、
たまには、こんな気持ちになってもよいのかなと、あえて考えてみることにしました。
「家族」って、なんなのかな。
思えば、生前、母親に対してあまり良い感情を抱いたことがありませんでした。
成人してからは特に。自分で家庭を築くようになってからは更に。
反抗期の子供のように、彼女の意思に逆らい、物事を判断したような気がします。
「あのコとは付き合うな。」と言われれば、そのコに夢中になり、
「運動なんかしないで勉強しろ。」と言われれば、暗くなるまでボールを蹴り、
「安定した大企業を選べ。」と言われれば、独りで仕事をし、
「都会が便利だ。」と言われれば、田舎暮らしを始め。
その度にヒステリックに罵られた記憶が今でも鮮明に思い出されます。
反撃の狼煙として、母の大切にしていたチェコグラスを砕いたことまで。
いま僕は、
はなれて暮らす二人の息子がいて、何となく親の思いがわかるようになってきました。
といっても、親として何かを指し示しているわけでもなく、
お手本になっているわけでもありません。
むしろ最低限の礼節を教える以外は価値観の押し付けをしないようにと考えています。
子供にとって、「親にどう思われているか」はとても大切で、
いくつになっても心の拠りどころや判断基準になり得ます。
だから必要以上に自分の好き嫌いやスタイルを主張しないようにしているのです。
僕の姿を見て、どう思うかは、彼ら次第(反面教師にしかなり得ませんが)、
彼らには「家族」に縛られない、彼らの人生を歩んでほしいのです。
そしていつか新しい家庭を築いていくでしょう。
自らが歩んだ道程を礎に、新しい「家族」がうまれるでしょう。
まだ早いですが、そのようなことも楽しみにしております。
この桜舞う頃の何とも言えない微妙な雰囲気や情緒、
高揚と寂寞の入り混じった感情をつたえることくらいは、
価値観の押し付けにはならないでしょう。
僕も両親から教わったのかもしれません。