第46回 異端児

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すっかり旅日記のようになっていますが、今日はイスタンブルから。

ご存知、トルコ最大の都市であるこの街は、
空港から市街地に移動する際にまず目にするマルマラ海と
黒海を結ぶボスポラス海峡を挟んで、大陸間にまたがった都市で、
人の多さとそれによる活気、建造物の造形に、圧倒されます。
「東西文明の十字路」として栄えたことは、歩いている人々の顔つきや、
髪、肌、瞳の色や行き交う言葉のアクセントから伺いしれますし、
それは空港でも感じられることなのですが
自分の足で実際にこの地を歩いてみると、地球上に実に多くの人種が存在して、
多くの思想があって、多くの信じる対象や多くの好き嫌いがあるかを実感するのです。

それは単に街中にコーランが響き渡るからでもなく、
僕が日本人だとわかってチャイをサービスしてくれるおじさんがいるからでもなく、
この目に映る街の人々の一挙手一頭足から感じることなのです。
観光名所でもあるガラタ橋のたもとでの人々のやりとりは、
まさに筆舌に尽くしがたく、可能な限り多くの方にここを訪れてもらいたい気分です。

考えてみるとこの街はトルコの首都ではなく、首都アンカラはここより東に位置し、
さらに国土は東に大きく広がり、シリアなど中東諸国とも隣接する国がトルコなのです。

11月13日パリが戦場になった近接因でもあるシリアとの国境など身震いする話ですし、
イスラム教と聞くと、なんとなく「怖い」という大きな誤解がつきまといます。
しかし、テロの原因が直接的な宗教上の実質ではないことが、
99%の国民がイスラム教であるこの国にいれば、よくわかります。
もちろん、政教分離の国であるためか、
イスラム教の厳格な戒律を多くの人が完璧には守っておらず、
その価値観からは「ぬるい」のかもしれませんが、信仰する気持に変わりはないでしょう。
片言のドイツ語でコミュニケーションをとろうとする優しい瞳から、
暴力的な殺戮とイスラム教が結びつくことは、とても想像できません。

ふと出国前にディナーした大好きな友人のことを思い出しました。
日本、英国、カナダと三つの国のパスポートを持つ彼についての詳細説明は、
長くなるので割愛しますが、そのような背景を持つアスリート出身の彼とは、
いつも仲間数人で食卓を囲み、様々な文化の違いや真剣勝負について語ります。
その彼から「『異端児』って、正確にはどういう意味ですか?」という質問がありました。
質問の内容からわかる通り、日本語ネイティブではない彼は、
職場の同僚に「異端児」と言われて自ら調べ、その言葉を気に入っているとのこと。

「異端児」=正統からはずれ、特異な存在と見られている人。
意外と普段使っている日本語も調べてみると、気付いていないことも多いことがわかります。
「児」という文字を使用するのは、発展途上を示唆し、
その評価がまだなされていないことを意味するとのこと。
評価が集まれば、時代の寵児にもなれるわけです。

彼は「他と異なること」を非常にポジティブにとらえており、
褒め言葉として受け止めておりました。
いつも思うことですが、異なることは、良いことでも悪いことでもなく、
単に「異なる」という事実だと思います。
価値観が異なれば、争いも起きるでしょうし、決裂もやむを得ません。
ただ、違いを主張する手段が殺傷であって良いはずはありません。
違いを認識したうえで、次にどのように思い行動するかが大切なのでしょう。

戦場と化したパリでは、移民増加を背景に根深い宗教対立が問題となっているそうです。
簡単には語れませんが、やはり事の発端に「異なる」という事実があります。

異なる価値観をもつことに勇気を持ち、合理的な解決を導くためには妥協も必要。
これが、僕の考えです。
11月18日、カナダのトルドー首相はISへの空爆作戦の停止を表明しました。
世界的なIS空爆への加速ムードの中、勇気のある選択であると思います。

「東西文明の十字路」で、あらためて人はそれぞれ違うのだということを認識させられ、
だからこそ、自分自身のアイデンティティや自国の言葉や歴史が
とても大切であることを実感するのでした。
帰国したら、また友人と食卓を囲み、教えてあげなければなりません。
「イタンジン」ではなく「イタンジ」であることを。
コーランの響きが心地よくなってきました。

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