何気ない誘いでした。友人でもありビジネスパートナーからの花火の誘い。
何年振りかの花火鑑賞を船上ですることになった僕は、踊る心に素直に従い、
スクリューがたてる水泡を見ながら、少しのアルコールを口にしました。
花火といえば、夕張の盆踊り大会の花火を思い出します。
母の実家に、僕たちは毎夏避暑にでかけました。
夏休みの2カ月をさびれた炭鉱の町で過ごすのですが、
そびえたつ山系、見渡す限りの緑、ヒグラシの声や小川のせせらぎが、
満員電車やタワーマンションを苦手な僕をつくりあげたのかもしれません。
それにしても雄大な自然、ただそれ以外には何もない環境で過ごす夏休みは、
いま考えれば本当に贅沢な60日間でした。
ひっきりなしに親戚が訪れる家で、祖母のおむすびを頬張り、庭のトマトをかじり、
嫌いになるほどの量のトウキビと夕張メロンが、少年の僕を満腹にさせます。
青空のした、冬にゲレンデになる山を駆け登り、虫網を手にオニヤンマと格闘し、
灯った灯篭をみながら、祖父の膝の上で彼の詩吟を聞き、夜の訪れ待つのです。
そして、短く涼しい夏を締めくくる盆踊り大会。
市が深刻な財政難であることを、幼心の僕にまで理解させてしまう、
十数発で終わる花火が、夏の終わりの寂しさとともに、いまだに心に残ります。
夏休みという「非日常」とのお別れを惜しむ寂しさなのでしょうか、
夏の終わりは、どうしようもなく寂しいものです。
マラカナンスタジアムを彩った花火が印象的だった、この夏のリオ・オリンピック。
閉会式を見て、宴の終わりを寂しく感じたのは、僕だけではないはずです。
メダルの数や、記録、それぞれの競技の細部にいたるまで、人々の議論の対象になり、
いくどとなく感動のシーンが、メディアを通じて僕たちの目にふれました。
メダルラッシュと評されたオリンピックですが、
勝つことが「日常」になっている選手は、普通に勝っているという印象をうけました。
結果は準備の延長上にあり、準備がすなわち結果だということです。
表彰台に立つことが日常になっている選手やチームは、浮足立つことがありません。
日常や習慣が、あるいはそれらが積み重なった歴史や伝統、文化が、
そのまま結果につながる、イコール本質なのだと、僕はあらためて感じました。
観る側にとっては4年に1度の「非日常」でも競技者にとっては「日常」なのだと。
ふと思い出すのです。あの夏の花火を。
少年の僕は、あの夏、何を考え、どんな夢をもって、何を求めていたのでしょうか。
自分が本当に好きなことは、どのようなことだったのでしょうか。
そしてそれが、いま、「日常」になっていて、人生を形成しているでしょうか。
間近で響く、感動のフィナーレを見ながら、あらためて僕は思うのです。
自分にとっての「好き」で「日常」を埋め尽くそうと。
今年の夏も過ぎてゆきます。やり残したことはないでしょうか。
あるとすれば、一夜漬けがきく、夏休みの宿題だけにしておきたいものです。