今朝、ドストエフスキーの『罪と罰』上下巻を読み終えた。
そもそも本を読むことは得意ではなく、かつ遅読。
しかし、読んでみたいと思っている本は数多くある。
気になる本をアマゾンでポチッとしたり、書店でタイトル買いをする。
そして、書斎の本箱に収まりきれず、仕事机の周辺に積んて置くことになる。
ビジネス関連書や雑誌の類には目を通すものの、日々の仕事や雑務に追われて、なかなか純粋に本を読むところまでには至らない。
ある日、アイデイアが思い浮かんだ。
書斎では仕事関連の本を読むとして、それ以外で気になる本は別な場所で読むことにしよう、と。
そして、一番適している場所はトイレだと思い至った。
こうして、トイレの壁に取り付けられた棚(トイレットペーパー置き場)に一冊づつ持ち込み読むことにした。
小さなルールも決めた。
・持ち込む本は一冊だけ。
・持ち込んだ本がどんなにつまらなく感じても、最後まで読む。
・読み始めと読み終わりの日付を記入する。
ちなみに、『罪と罰』の上巻は去年の10月23日から読み始め、終わったのが12月29日。
下巻は12月30日からで、読み終えたのが3月2日である。
ほぼ4ヶ月を費やしての読了である。
恥ずかしいほどの遅読である。
しかし、それにしてもこの『罪と罰』は手ごわかった。
登場人物が多いうえにロシア人の長い名前が複雑に絡み合い、加えて個々の心理描写も延々と続く。
まるで難行苦行であるが、それでも自分なりに理解できることも幾つか見えた。
この物語は、主人公である貧しい大学生ロジオーン・ラスコーリニコフがある想念に取り憑かれ、金貸しの老母とその妹を斧で殺害するという事件から始まる。
彼が抱いた想念とは、歴史上の英雄や天才のような少数の「非凡人」は、多数の「凡人」とは異なり、人類にとって有益な目的のためならば、ある一線を「踏み越えることが許される」、つまり罪を犯す権利を持つというものであった。
この『罪と罰』は、ドストエフスキーが1865年から1866年にかけて執筆したものだ。
150数年後のいま、そのロシアの指導者プーチンという為政者の心の中にも、こうした選民思想が渦巻いているのではないか。
いままさに、歴史的な暴挙として進行しているロシアのウクライナへの侵略。
一党(ひとりの)独裁が民主主義より優れていると言わんばかりの振る舞いである。
まさしく、選ばれし者が自国の利益になることを時間をかけずに実行できる。
愚民はだまってそれに従えばいいのだと。
それに比べ、民主主義は手間暇がかかる。
皆での議論を重ね、意思決定をし、決定されたことは責任をもって課題解決の努力をする。
今回のロシアの軍事行動は対岸の火事ではない。
一党独裁か民主主義か、どちらが人類の進む道にとっていいのか、いままさにそのことが問われている。
一刻も早く戦争の終結を願うばかりである。