第949号『父の命日』

先週、11日は父の命日だった。
自戒を込めて父、川村耕四郎からの教えを反芻してみた。

父は、故郷の津軽で時計修理の職人として小さな時計店を営んでいた。
余談だが、倅の原作『世界から猫が消えたなら』川村元気著の映画化で主人公の実家の時計店が登場する。
主人公、佐藤健の父役は奥田瑛二。
仕事場の机にへばり付き、一心不乱に時計と格闘しているかのようにその姿が描かれていた。
おそらく、倅が子供の頃に見た祖父をイメージして描いたのだろう。

ともに商いを切り盛りしてきた妻(僕の母が)が亡くなり、一旦は店を閉じた。
しかし、竜頭を巻いて動かす時計を持つお得意様が、なかなか辞めさせてくれなかった。
ゼンマイ式の時計の修理をできる職人が年々少なくなり、父の腕前を人づてに聞き依頼が来ていた。
それも、少なくない数だった。
収入も高齢者としては十分な報酬をいただていた。
直接持ち込んでくることもあるが、依頼の多くは郵送で送られてきた。
時折、その修理依頼の封筒に時計への愛着や、思い出が綴られた手紙が同封されてくることもあった。
父は、時計を修理した後、手紙を添え丁寧に梱包してお客様に送り届けていた。

この間、時間を持て余すことも、病に侵されることもなく、自立した高齢者としてのプライドを持ち、本を読むことや新聞・雑誌に日々、目を通して新しい情報の更新作業も怠ることなく(仕事場の机の下には辞書を常備していた)過ごしていた。
こつこつと信頼関係を築き、気づけば父のファンも少なからずいたようだ。
幸せな人生だったのではないかと、羨ましく思う。

父の話をもう少しさせて欲しい。

父は、敗戦後シベリアで抑留されていた。
時計職人として東京銀座での見習い修行を終え、ようやく独り立ち(場所は叔母が開業医として暮らしていた、横浜の金沢文庫を予定していた)しようとしていた。

20歳の時、召集令状の赤い紙切れがきた。
そして、1945年8月の敗戦と同時に、満州で不当にもソ連軍の捕虜となり、3年もの間、極寒の地に抑留された。
軍隊に招集されて4年、さらに捕虜として抑留された3年。
7年もの長きにわたり、自由(20歳から26歳まで、最も青春を謳歌できる季節を)を剥奪された。

ある日、父の仕事場の後ろの棚の上に、ビニール袋に入った2本のタバコが置かれていた。
よく見ると、菊の紋章が印刷されている。
酒もタバコをやらない父だから、なんだろうと思い聞いてみた。
父は「天皇陛下からいただいた」とさらりと言った。
続けて「日本国の兵士としてシベリアに抑留され、その苦役に対する労いの印として贈られたものだ」と、そして黙した。
おそらく、父は言葉では語れないほどの地獄を見てきたのだと思う。
その、国家からの報いが菊の御紋の入ったタバコ2本。

抑留から開放され、命からがらハバロフスク港から京都舞鶴港に着岸した時、野心も何もかもかなぐり捨て、一刻もはやく故郷津軽に帰ることしか頭になかったという。
そして、父が30歳の時、僕が生まれた。
戦後復興の波に乗ることもなく、父は小さな時計商を営み僕を育ててくれた。
日々、取るに足らない(時計修理という)仕事を懸命にやっていた。
それは、好きとか嫌いではなく、働くことと生きることが同義だったからだろう。

真面目で、口数が少ない。
そんな父だけれど、こんな言葉も僕の記憶に残っている。
「国家は嘘をつく」と。
戦争に敗れ、父をはじめ多くの人たちも、国家を信じることができなくなっていたと思う。
それでも、故郷と周囲の仲間や時計の修理を依頼してくれたお客様のために、いま自分ができる小さなことを必死に引き受けてきたのだ。

お客様とのやり取りが粗末になることを、父はとても嫌った。
戦後焼け跡から復興した日本を支えていたのは、こうした市井の人たちの地道な、そして頑ななまでに人と人との信頼を裏切らない心根があったからだと思う。

父の来し方を通して、僕自身のこれからの行き方を考える指針にしたい。

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お知らせです。
いよいよ来週からGWに突入しますが、ファンサイト通信も4月29日(金)5月6日(金)の2回、お休みさせていただきます。
次号開始は、5月13日(金)からの配信予定です。
引き続きご高覧のほど、よろしくお願いします。

1件のフィードバック

  1. お父様が奪われた時間。
    お客様のもとで刻まれる時間。
    黙々と時計に向き合うお父様を想像しました。
    大切なお話を書いていただきありがとうございます。

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