ドラマや映画を2倍速や3倍速にして、観る人たちが増えているという。その目的は、とりあえず見て友だちと話の辻褄を合わせるためらしい。(つづめて観るということは、物語を成立させるための役者の演技の間合いや、背景に流れる効果音や音楽を無いものとして観ることである。)さらに、本を読まないのは当たり前、漫画もアニメもドラマも見ないという人たちに出会うことも珍しくない。大きな文脈でいえば、物語を読めないということは、自分以外の他者への思いや、置かれた立場を想像し共感することが難しくなる。
作家のジム・ヘイネンがあるときレイモンド・カーヴァーに、奇妙な体験を話した。彼が銀行から出てきたとき、一羽の白頭鷲が彼の車のボンネットに鮭をドスンと落としていった。ジムはその鮭を家に持ち帰って食べた。ジムがこの話をしてほどなく、彼はレイモンドの書いたある詩を目にした。「詩人が散歩していると、その足もとに鷲が鮭を落としていった。詩人はそれを料理して食べた。」とあった。後日、ジムはレイモンドに質問した。ひょっとして君、僕のあの話を使ったのかい、と。「そうだよ」と彼は言った。
レイモンド・カーヴァーの『愛について語るとき我々の語ること』(村上春樹訳/中央公論新社)でこの一節を読んだ。鮭がある日、突然に空から降ってくるというこの奇妙な説話が、創り話しではなく実話だったと知った。
Netflixで映画『ブロークバック・マウンテン』アン・リー監督作品を観た。アカデミー賞の3部門、監督賞、脚本賞、オリジナル音楽賞。ゴールデングローブ賞主要4部門受賞、加えて、2005年ヴェネツィア国際映画祭グランプリ<金獅子賞>受賞。この年のほぼ主要な賞を独占した映画である。
1960年代のある日、二人のカーボーイが愛に目覚める。この日以来ワイオミングとテキサスを舞台に、20年間余りにわたる二人の人生がつづられて行く。緻密でかつ大胆な演出、役者が上手い、そして丁寧な撮影。カントリー調の、アコーステックな旋律のサウンドトラックもすばらしい。しかし、観終わった後、なんだか了解しえない分からなさを感じた。どう理解したらいいのだろう。偏見と差別意識か。あるいは、なんとなく勝手に期待していたストーリーとは違った展開だったからか。模糊とはしているがこんな世界もあるのだろうと一旦は了解したが、それでも何かが気になる。
それが何かを知りたいと思った。
この映画の原作者、アニー・ブルーは語る。「小説は読者である私たちを、自分自身の人間的条件に向きあい、取り組める地点、自分が何者であるかを発見することのできる高い地点へ連れていってくれます。小説は狭い視野しか得られない窮屈で複雑な世界の中で生きている物としての自分自身を見る能力を高めることができるはずです。」
人が望んでいること、自分はこういう人間だと思い込んでいる自己イメージ、事実として起こっている現実との間には、当然ゆがみやひずみがある。なにが幸せでなにが不幸か。そんなに簡単には言えないし判るはずもない。風景にしろ人生にしろ、深く分け入って見れば人一人の通念など手ひどく裏切られる。
だから、空から自分の足元に鮭が降ってくることもあれば、カウボーイ同士が愛に目覚めてもなんら不思議ではない。あり得たかもしれない無数の人生という物語の中で、人は生まれ、その生まれた時代を生き、そして死ぬ。賢し顔をしようがしまいが、とまれ、人生はどんどん前へと進む。
さて、気にかかったこととは何か。
あるがままを受け入れられない狭量さと、それを排除しようとする了見。見栄えばかりを気にして、甘く、とろとろとした予定調和のなかにどっぷりと浸かっている。そうした自分の姿だったのではないか。想像力と愛、つまり、まだまだロックが足りないのだ。