夏になる前、ベンチャー企業経営者や、もの創りに取り組んでいる数名の若い衆と酒を酌み交わした。少し酔った勢もあってか議論になった。そして、僕自身「オリジナル」とか、「クリエイティブ」といった言葉の意味を、これまで随分とゆるく、そして曖昧に使ってきたのだなと感じた。「オリジナル」とか「クリエイティブ」ってなんだろう?今回、この機会に考えてみた。断るまでもないが、これはあくまで個人的な意見である。
よく言われることだが、白い紙に思いつくまま、思うがままに表現することが真新しく誕生する「オリジナル」で「クリエイティブ」なものだと思われがちである。しかし、それは違う。なぜなら、「オリジナル」とか「クリエイティブ」とは歴史的な文脈の中で存在するものであり、さらに言えば、引用によっって紡がれた織物のようなものなのだ。そもそも、新しいとは相対的な立ち位置をもつことによってのみ存在する。したがって、この世に絶対的な新しさなどありえない。
建築・映画・美術・文学・音楽・スポーツなど、およそ表現されるもののすべてにおいて、過去の膨大なパフィーマンスと作品の記録と記憶が存在する。これら、先人たちのアーカイブから逃れることは誰もできない。
例えば、ル・コルビュジエがいなければ前川國男はいないし、前川國男がいなければ丹下健三はいないし、丹下健三がいなければ、槇文彦、磯崎新、黒川紀章もいない。ウィリアム・ワイラーがいなければ小津安二郎も黒澤明もいないし、黒澤明がいなければジョージ・ルーカスもいない。ウッディ・ガスリーがいなければ、ボブ・ディランはいないし、ボブ・ディランがいなければ、吉田拓郎もいなかっただろう。例えば、ドビッシーとエリック・サティがいなければ坂本龍一は存在しなかったし、坂本龍一がいなければ、コーネリアスも相対性理論(やくしまるえつこ)も存在しなかった。国枝慎吾がいなければ小田凱人はパラリンピックの舞台にいなかった。
例えば、イギリスのアーツ・アンド・クラフツムーブメントでウイリアム・モリスが存在しなければ、ドイツ工作連盟は存在しなかっただろうし、ドイツ工作連盟がなければバウハウスは存在しなかったし、バウハウスがなければ、シカゴバウハウス、そしてイリノイ工科大学をはじめ、今日の日本のデザインとデザイン教育もなかっただろう。
ものを創るということは、これまでの歴史的文脈の流れを学び、畏敬し、感謝し、そしてそこから更に、順列組み合わせを変え、いままで無かった閃き(=アイデア)を付け加える作業なのだ。それが、すべてのクリエイティブの新しさであり、オリジナリティということではないか。つまり、どこまでいっても創ることとは、これまで先人たちが紡いできた織物に、自分らしい新たな一本の糸を加え編む試みなのだ。だからこそ、歴史を学ぶことが必須なのだ。