フランシス・コッポラの娘、ソフィア・コッポラ監督の今年度アカデミー賞オリジナル脚本賞受賞映画「ロスト・イン・トランスレーション」も「ベルリン・天使の歌」のヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー映画「東京画」も西洋人から見た東京の街が描かれた佳作である。
形も色も、なんの法則性も感じられない建造物の混沌とした様相が生み出す無秩序な風景。
この2つの映画に映し出された東京の街は、わざわざ撮影ために作ったセットのようにも見えた。
これまで日本には建物の建築規制や規準はあったが、街づくり全体を俯瞰してみる意識は、おおかたの住民にも国にもなかったように思う。
したがって、この国では都市計画らしい都市計画として実現した街がほとんどない。
それはなぜか。
日本人には元来、全体を総括して発想する意識が欠落していたということなのか。
はたまた、一つの総体に集約し固定されることへの無意識の拒否反応があったからなのか。
あるいは、こうした高邁な概念などではなく、生活するだけで手一杯で、街の景観などに感けている余裕などなかったということなのか。
ともあれ、私たちは戦後、個々の建物と周囲の環境をすべて含めた「景観」という風景を一度も手に入れたことがない。
こうした日本人の都市観を、東京という街は見事に体現している。
そして、最近、さらに奥行きと厚みのない様式だけの、例えばそれは、アールデコ風だったり、ゴシック風だったり、ポストモダン風だったりを模倣した建物が目立つ。
まさに、東京の街が映画の書割りセットのように記号化し、奥行きのないデザインの建造物で覆い尽くされはじめている。
なんちゃって都市、東京。
映画村あるいは映画都市。
映画の中では真実は不在であり虚構としての生を人は生きる。
だから、映画のセットの前で役者は誰かに見られていることを意識し、演じる。
なにやら、私たちは「生きる」ことより「演じる」ことを強いられはじめているようにも思う。
映画「ロスト・イン・トランスレーション」の中で主人公がホテルから眺める東京の夜景は美しい。
いや、いまの日本の都市では、上空からみた夜景だけがかろうじて美しい。
それは闇が無秩序な色やカタチの混沌を覆うからである。
そして、映画のセットのような街で真実の生を剥奪された私たちが演ずることから開放される瞬間もまた、この闇の時間である。
あたかも、ある時間だけ魔法が解ける野獣や人形や女王のように。