春うらら風に誘われ、会社から法務局のある竹橋まで歩く。
鎌倉橋を左手に見ながら、神田橋へと向かう。
神田橋を渡り、大手町合同庁舎と気象庁を過ぎ、皇居のお堀沿いに進む。
さて、法務局での野暮用も終え、得意先との打ち合わせで八重洲へと移動する。
大手濠を右手に内堀通りを進み、三井物産、三井住友銀行の角を曲がる。
平将門首塚の前で軽く会釈をし、足早に通り過ぎる。
JRのガードをくぐり、まもなく常盤橋が見えてくる。
常盤橋を渡り、永代通りとの交差するところに呉服橋が見えてくればもうすぐ八重洲だ。
打ち合わせも無事終り、八重洲から神田へと踵を返す。
工事中の丸善を左に高島屋を右に見ながら中央通りを通り抜ける。
野村證券が見えてくればもう日本橋である。
そして、日本橋の前で立ち止まる。
この日、どうしても確かめておきたいことがあった。
この橋にまつわることで、だ。
先日、本箱の整理をしていて、隅に埋もれていた本を見つけた。
「都市廻廊」(長谷川尭著・相模書房刊)、学生のころ手に入れたものの、読んでみると難解に思え、途中で放り投げた。
だから、内容もほとんど記憶にない。
なにげなくパラパラとめくっていると、中の口絵にどこかで見かけたような写真がある。
「川面から見た日本橋」とのキャプションに違和感を覚えた。
日頃よく通っているこの橋とどこか違う。
道を挟んで国分(缶詰)本社側にも、野村證券側にも川縁へと続く階段がある。
橋のたもとから2~3メートル階段を下ると、ぽっかりと小さなスペースがある。
川面近い場所に降り立ち、日本橋を仰ぎ見た。
驚いた。
それはまるで巨大な石の鳥が、ゆったりと羽を広げて大地に降り立つような姿にも似ている。
ここから眺めると、橋の側面は橋柱を中心に両脇に弧を描くようデザインが施されている。
口絵の通りだ。
ブロンズの獅子や麒麟を配してはいるが、ほとんど道と化した無表情な橋が、川面から見るとなぜこれほどまでに豊かな表情を見せるのか?
「都市廻廊」からの引用と要約である。
日本橋を設計した妻木頼黄は、安政6年、江戸で生まれた。
妻木家は代々旗本であり、父は長崎奉行所の要職にあった。
明治11年工部大学造家学科(現東大建築学科)第6回生として入学する。
まもなくアメリカ・ニューヨーク・コーネル大学へ私費留学。
帰国後、東京府へ勤務し東京府庁舎、横浜正金銀行、日本勧業銀行、東京商業会議所など数々の作品を手掛けている。
いわば、官僚でありエリートではあったが、当時日本の建築教育の中心、東大と建築アカデミーの建築学会を牛耳る巨匠辰野金吾らとの対立のなかで、異端者として位置づけられた。
妻木は明治社会の官僚機構の真っ直中に居て、成功しながらも、実は密かに明治という時代と文明を無意識に、あるいはかくれた意識において憎しみつづけていた。と。
幕末にあって旗本の子弟として、自らを育んでくれた、いく筋も川が流れる美しい町江戸が明治という時代とともに、「薩長の田舎ザムライ」と文明の象徴として地上を駆け巡る陸蒸気に占領されたとの想いが強くあったのではないか。
ちなみに当時の建築学会の中心人物だった辰野金吾は佐賀藩、片山東熊は長州藩出身である。
なぜ、日本橋は妻木というデザイナーによって、橋の上を通る人や電車や車のためにデザインを考えているようにみせながら、実は反対に川面の側からすべての意匠が施されたていたのか?
それは、明治に対する疑いの眼差し、そして嫌悪、それに対応する江戸への憧憬の念である。
妻木の眼差しは道路にある明治文明的日常性から、川面にたたずむ江戸の文化的非日常へと注がれていたのだ。
この橋の上にはいま首都高が、どっかりとのしかかっている。
まるで明治、大正、昭和、平成と生き続けている魔物が川と運河の町を何層にも覆い被り、江戸という豊かな風情を封印しているかのように思えた。
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来週4月7日金曜日、オフ会のお知らせです。
■■祝 ファンサイト創立5周年記念オフ会■■
江戸ころもいまも桜の木の下で酒を飲み交わす季節です。
昨年、一昨年とほぼ恒例になりはじめた宵の口からの観桜オフ会です。
「今年はどうなるんだヽ(`Д´)ノ」と、皆様からのお問合わせが殺到!?しております。
大丈夫、ご安心ください。(^^!勿論、今年も開催します。
来週4月7日金曜日、4時ころから桜の木の下でとりあえず飲んでます。
場所はJR四谷駅下車、上智大学横にある中央線と平行している土手の桜並木の周辺にいます。
(うまくすれば今年もソフィアアカペラ合唱隊の歌声を聴きながらの一杯です。)
場所がわからない方は川村まで連絡ください。
070-5558-7399 ファンサイト 川村です。
久しぶりの方も、いままでメールでの遣り取りだけの方もお待ちしています。