なんとなく、ぬるい夏だなと思っていたら、ここ数日、辻褄をあわせるかのように残暑が厳しい。
そして、早稲田実業対駒大苫小牧の熱い闘いが、今年の夏をきちんと締めくくってくれた。
甲子園での決勝戦。
延長15回、1対1の激闘。
勝負がつかず翌日再試合となった。
37年前、高校3年の夏を思い出す。
決勝戦で三沢高校ピッチャー太田、松山商業ピッチャー井上の両投手の投げ合いとなり、あの時はいまより3回多く延長18回、翌日再試合だった。
今年、早稲田実業の斉藤も駒大苫小牧の田中も、とてつもなく素晴らしく輝いていた。
なぜ、あんなにも熱くなれるのか。
そして、見終わった後の清々しさはどこからくるのか。
一言で言えば、高校球児たちの「愚直さ」に気圧され、我が身にへばり付いていた小賢しい了見だの、矮小な疑義だのをきれいに洗い流してくれたからだ。
日々、往々にして他人の失敗により我が身に降りかかった災難を許すことに寛容になれない。
いやむしろ、新たな疑惑や憎悪を増幅さえしてしまうことがある。
人はこうした恨みや憎しみに支配されエネルギーを奪われ、ひどく疲れるだけにも関わらず、である。
たしかに、彼らが高校野球の頂点で戦うことができる背景には合理的で科学的な指導の基、優れた技術の獲得や筋肉トレーニングによりパワーアップされた身体が備わったことで実現したのだろう。
しかし、そうした技術力や体力も、強い精神力を持ち、仲間を信じ、自分を信じることによって十全に発揮することができるのだ。
攻守にわたり白熱した闘い。
ほんの些細なミスが勝敗の分水嶺になるこの試合でも失策や失投の度に、選手同士お互い声を掛け合い、手を挙げ、肩を叩き励まし合う場面を幾度も視た。
大切なことは、いまさら究明しても取り返しのつかない事実や失策を挙げつらうことでも、疑惑と憎悪に支配されたままに憤ることでもない。
やるべきことは仲間の懸命なプレーを認めること、そして自分もさらに懸命に考え、身体を動かすことである。
つまりこの瞬間、精神は身体をもつことによってしか体験できないことを発見し、その体験によってしか精神は成長できないことを自覚するのだ。