第257号『あたりまえということ』

【飛べない鳥】
【飛べない鳥】

ミャンマーに、いま世界の目が注がれている。
政府が招いた困窮に、僧侶と普通の市民が平和的な抗議行動を行った。
この抗議行動に対し、ミャンマー政府の対応は銃とこん棒での鎮圧だった。
そして、日本人ジャーナリストもその銃弾の犠牲となった。

イギリス、アメリカを中心として欧米各国では現軍事政権への非難を強め、国連も動いた。
しかし、日本ではアジアの一員として、近年アジアで起きた大津波や地震災害などの募金活動のような、なんとかしなければという声が聞こえてこない。
ミャンマーの民主化運動に、なにか冷めた眼差しでいる。
なぜそう感じるのだろうか、と考えた。

僕たちはいま、日常生活のなかで自由に発言したり、行動できることをあたりまえと感じている。
それは、憲法によってそのことが保証されているからだ。

そもそも、憲法の役割は国家権力に対して、主権者たる国民が身を守るための道具である。
言論の自由であれ、信仰の自由であれ、享受している基本的な人権は、人類が長年の闘いで勝ち取ってきたものである。
しかし、僕も含め多くの日本人は「国家権力から身を守る最後の手段が憲法である」という認識が薄いのではないか。

現行の日本国憲法はアメリカの独立宣言や、フランスの人権宣言のように民衆が血の購いとして、闘い勝ち取ったものではない。
占領下、アメリカから与えられものである。
だから、先達から、これこれ左様に、こうして日本は国家から自分たちを守るための権利を自分たちの手によって獲得した、という話を聞くこともなく過ぎてきた。

ミャンマーの民主化運動に、なにか冷めた眼差しでいたのは、どこかに、あてがわれた自前ではない日本国憲法に対する居住まいの悪さを感じていたからだ。
しかし、どういうカタチであれ、ミャンマーの人々の現状を見るにつけ、僕たちが享受している権利の重さを改めて受けとめ、考えるきっかけが出来た。

民主主義とは自分と違う意見を認めること。
それも、多数派が少数派に認める権利を保証する制度である。
それは、ヒューマニズムに根ざしたというよりは、合理性に合致しているからだ。
このことを端的に言及した内田樹氏の「街場の現代思想」から引用する。

〈例えば、「他人の生命財産を自由に簒奪してもよい」というルールは、力のあるものにとって短期的には合理的であるが、それが長期にわたって継続すると、最終的には「最強のひとり」にすべての富が集積して、彼以外の全員が死ぬか奴隷になるかして共同体は崩壊する。〉

ミャンマーの人々が、自由に行動し、発言することがあたりまえになる日がくることを心から願う。

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