ウィキペディアによれば「自由」とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うこと、と記載されている。
さらに、この語の訳者、福沢諭吉がリバティを訳するに際して、初めは「御免」と訳す予定であったが、上意の意味が濃すぎると考え、仏教用語より「自由」を選んだとある。
つまり、「自由」という概念は、福沢諭吉によって明治以降、日本に導入されたものである。
福沢自身、下級武士から国の中心的な地位に駆け上がって行くその様に合わせ、自由な競争が生む社会とは、個人の努力によって、入れ替え可能な社会であるとの好意的な文脈として理解されてきた。
そして、100年の歳月を経て「自由」が化け物のように肥大し、闊歩している。
視たくもない光景であるが、コンビニエンスストアの前でしゃがみ込む若者、電車の中で化粧をする女学生、果ては、官僚さえもが、接待ゴルフだ、麻雀だと「他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由だ」と振る舞っている。
僕は到底こうした考えに与しない。
いまやこの国は「自由」によって振り回され、行く先を見失っているように思える。
そもそも、「自由」な競争が生む社会がそれほど素晴らしいとは思えない。
なぜならば、入れ替え可能な社会の基準とは、その人にどれだけの能力があるかではなく、その人の代替えがどれほど出来にくいかで決まるのである。
つまり、どんなに有能な人であっても、その人が担当している業務を、もっと安く出来る人がいれば、それに取って代わられる。
つまり、替えのきく人間を切り捨て、替えのきかない人間を残す。
これをリストラと呼ぶのである。
こうして「自由」の果てに辿り着いたのは、階層と差別と失望に満ちた硬直した社会の到来だったのではないか。