例えば、食べたことのないものや、訪れた場所の印象を人に伝える時、どう言えば良いのだろうか。
「上手く言えないのだが」「筆舌につくしがたい」「言葉にできないが」こうした言い回しもある。
しかし、これでは何も伝わらない。
いや、むしろ他者との間に溝を作り、情報を共有することを拒んでいるともとれる。
では、どうするか。
僕はしばしば記憶の中にある、「共感」を利用する。
「共感(empathy)」とは、他者の感覚、考え、体験などを、気が付いたり、感じとったり、擬似的に追体験することで生まれる。
その時、記憶は何かを思い出すためだけではなく、目の前に現れた様々な事柄を、理解するための道具として使われる。
なぜなら、人は自らが保有している記憶で肉付けしながら、与えれた情報を解釈しているからだ。
ゆえに、こちらから何か情報を伝える時には、その情報をより分かりやすく、豊かなものにするためにも、受け手の頭の中にすでにある記憶を呼び覚まさなければならない。
世界は言葉に出来ないことで溢れている。
それでも、できるだけそれに近づき、そして、その中にある事柄をすくいあげてみたい。
たとえ、それが稚拙な言葉であったとしても懸命に探す。
少なくとも、その努力を惜しまないようにと肝に銘じている。
僕はモネの絵が好きだ。
MOMAで、ブリヂストン美術館で何度となく観た。
でも、その美しさが何に由来するのかわからなかった。
ある時ふと思った。
晩年、自宅の池に浮かぶ「睡蓮」を描き続けたというモネについて。
絵の中にあるのは、移ろい行くものの、その一瞬を記憶に留めてみたいという意志と、永遠という時間を手に入れたいと願う画家の想いではなかったか、と。
僕は、老いることの意味と、モネについてほんの少しだけ語れるような気がした。
2件のフィードバック
優れた芸術は、必ずいうにいわれぬあるものを表現していて、学問上の言語も実生活の言葉もなすところを知らず、僕らは止む無く口をつぐむ。一方、この沈黙は空虚ではなく感動に拠るものであるから、誰かに伝えたいという衝動を抑えがたく、口にすれば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。
小林秀雄
ボクは感動を目のあたりにしたとき、必ずこの文章を反芻します。
牧元様
お世話様です。
ご無沙汰しております。コメントありがとうございます。
自分が感動したことを伝えたい。
これが原点だと思っております。
今後ともご高覧のほどよろしくお願いします。