別に、特別悲しいシーンでもないのに涙がでた。
山田洋次監督「たそがれ清兵衛」(原作は藤沢周平)は静かだけど忘れていた何かを思い起こさせてくれる映画でもある。
質素な食事、飯とわずかなおかず。食い終わって白湯をその飯椀に注ぎ、摘んだ沢庵一切れで椀の内側についている飯を拭き取るようにかたずけ、もとの箱膳にもどす。
室内のあかりといえばそれも、ほの明かり。
身に付けた着物も、にぶい色合いである。
すべてが暗く、にぶく、質素なケとしての日常が横たわっている。
わずかにひかりや笑いがさすのはハレとしての祭や童遊び。
しかしそれとてほんの瞬間である。
この舞台は徳川幕府体制が終わりかけていた海坂藩(いまの山形鶴岡市)である。
したがってことばも東北訛りで、もごもごとし、なんともぱっとしない。
わずか、100年とすこし前のこの国のどこかで営まれていた下級藩士の日常である。
しかしこの作品には特別、鮮やかものが宿っていた。
それは刀である。
すべてが型のなかに収められそこから逃れることのできない世界の中にあって刀は精神世界を深く強く受け止めていた。
死ぬことをなんでもないと思うに至る静かな凶器、侠気、狂気。
そしてその先にある静かで穏やかな振る舞い。
それは美学というレベルの問題かどうかはさておき、すべての所作が凛としている。
なにも懐古趣味に走っているわけではなし、今流行りのプチナショナリストを気取っているわけでもない。
いや、むしろ石原都知事など一部のアジテーターにより戦争があたかも民族的正義としてのリトマス紙のように提示され翻弄されているマスコミや世論の形成に怒りをおぼえる。
ほんとうに怖さや痛さや悲しみを感じていたら人はもっと謙虚にそして静かに日々を送る。
刀のという魂を失った日本人がいま戦わなければいけないのは、どこかの最貧国ではなく自らの心の貧しさとである。