第363号『行く時来る時』

【今日のスカイツリー】
【今日のスカイツリー】

大学3年の時、日本エディタースクールの夜間コースに通った。
講師陣の中で最も印象的だったのが、レタリングの授業を担当されていた佐藤敬之輔先生だった。
先生は東京大学で動物学を専攻していたが、思うところ有り、後に京都の寺で見習い僧としてしばらく修行されていたという変わり種だった。
その修行時代に写経を通して文字の美しさに出会い、レタリングの世界に開眼したという。

ある日、「間とは何か」について話された。
師曰く、漠として掴み所のないものを見える様にすることが「間」である。
而して「間」ということばの古語は、門構えに月と書く。
門扉の隙間からこぼれる月の光の亡羊とした様をいうのだ。 と。

カタチとして確固としてあるものではないが、確かにそこにある「もの」 それが「間」である。
無いものを有るがごとくにする。

考えてみれば、「時間」も「空間」それ自体では存在しない。
だから、人は時計やカレンダーやスケジュール帳を使い、時間も空間も見える化することで、あたかもあるがごとくすり替えているのだ。

では、なぜ、そうまでして見えるようにしなければならなかったのか。
それは、過去と未来を持つためである。
過去にすれば、整理ができ処理でき、そして未来という可能性に夢を託したいからだ。

もとより、忘れてはならない、あるいは忘れられない「もの」や「こと」は山ほどある。
しかし、ここは一先ず過去に置き、夢を実現するための新しい年を迎えたい。

お知らせ。
今年も一年、ファンサイト通信のご高覧ありがとうございました。
次号は、来年1月8日(金)364号の配信予定です。
清々しい、年末年始をお迎えください。

1件のフィードバック

  1. ムサビの夏休み、佐藤敬之輔先生のコトバでいまでも印象に残るひとつ。
    「日本の庭園は不等辺三角形の美で構成されているのだよ。
    どこにもシンメトリーがないんだよ」といわれたこと。
    もうひとつ、
    「すべての文字には魂がある。そこまで表現できなければ文字とはいえない」
    ぼくは、ほんとに泣く泣く、なんどもなんども文字を書きなおしましたが、OKはでませんでした。床に散らばった僕の文字、今も目に浮かぶ。

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