「プレゼンテーションが上手いですね」と、人から褒めをいただくことがある。
確かに、プレゼンは大好きである。
だからといって、話し好きなわけではない。
いや、むしろ普段、ほとんどむっつりと黙り込んでいることのほうが多い。
なにしろ、押し潰されそうな雪雲と、凍てつく寒風の中で生まれ育ったからか、
笑顔を作ったり口を大きく空けて話すことに未だに慣れない。
例えば、Aが友達Bと道ですれ違ったときの郷里での会話である。
A「どさ」(どこへ行くの)
B「ゆさ」(お風呂に行くんだ)
事程左様に、いまだ屈強な黙りが根付いている。
最近、さらにこうした傾向が強くなっていることを悟らされた。
ある日、妻から「あなたはいつも本を読んでいるか、PCやfacebookとばかり話して
いて、ちっとも私と話をしてくれない」と言われた。
その時は「そんなことはない」と弁解したが、考えてみるまでもなくその通りである。
これは、生い立ちなのか、それとも加齢による偏屈さなのか。
ともあれ、自分自身の偏狭さに強い危機感を覚えた。
言葉の単純化は感情の単純化でもあるから、人間関係も簡素で楽になるかと言えば、
それは違う。
複雑なものが単純になるということは、何もない空虚の闇が深くなるということでも
ある。
この闇から抜け出すには、何かしら言葉を発し会話を始める以外ない。
しかし、今更、何を話せばいいのか。
先日、酒飲み友達のPにそんな話をしながら熱燗を酌み交わしていた。
彼はニコリと笑い、秘策を教えてくれた。
「カワムラ、お天気の話はいいよ」と。
話題がない、あるいは話が尽きたときにこそ、天気の話がいい。
陳腐だと、歯牙にもかけない人もいるが、これほど有効なテーマはない。
考えてみれば、天候は誰にとっても平等な事象である。
貧富も、人種も、病めるも健やかもいっさい区別がない。
雨・風・雪・晴れ、誰にもどうすることもできず、同じように降りかかる。
ボクに雨が降るときは、あなたにも降る。
いまボクたちが抱えている多くの人為的問題と違い、自然や八百万の力によって
生み出されたものである。
知人とであれ、他人とであれ、天気の話をするということは、ひとまず様々な
心情を脇に置き、同じ人として認め合うメッセージでもある。
かくも、人間同士を引き裂くものが蔓延しているなかにあって、人と人を結ぶ
テーマがあることはありがたい。
妻は、なにも理に適うような蘊蓄に富んだ会話を、ボクに望んでいるわけでは
ないだろう。
例えば「今日の夕焼けはきれいだね」とボクが言う。
すると、彼女から笑顔が一つ返ってくる。
その笑顔をステキな贈り物として受け取る。
そういうものたちから離れないようにすれば、士気は自ずと上向いて行く・・・。