【黄金色に色づいた銀杏並木】
先月、仙台にいる親族の訃報をうけ、仏事を執り行った。
今週初め、その遺品整理のため再び仙台に出かけた。
心とは裏腹に秋晴れの空を背景に、黄金色に色づいた銀杏並木が輝いて見えた。
それにしても、今年は悲しい知らせを受けることが多かった。
春には友人T君、彼はまだ50代半ば、これからが人生本番のさなかだった。
そして、夏には、かつての職場の先輩S氏。
人はすべからく、誰も死から遁れることはできない。
この厳粛な事実をあらためて感じた。
ふと、村上春樹の初期の作品『ニューヨーク炭鉱の悲劇』での逸話を思い出した。
これは、1年間に5人もの知り合いが亡くなってしまう28歳の青年の物語である。
葬儀のたびに、友人に黒い背広を借りに行き、そして、その友人の奇妙な習慣を聴くという
ものだ。
彼の奇妙な習慣とは、台風や集中豪雨がくるごとに動物園へ足を運ぶという。
この奇妙な習慣を10年間続けているというのだ。
夜の動物園では、闇の中を地の底から、這い上がってきた「目に見えない何かが跳梁」して
いた。
「動物たちはそれを感じる。そして俺は動物たちの感じるそれを感じる」と。
そして、友人は語り続ける。
「俺たちの踏んでいるこの大地は地球の芯まで通じていて、その地球の芯はとてつもない量
の時間が吸い込まれているんだよ」と。
このエピソードを語る友人は、青年に何を伝えようとしたのか。
つまり、こういうことではないか。
この世は、人間だけが考える地上の世界のみで成り立っているわけではない。
人間もまた嵐の中で自然の一部であることを知り、そして、夜の動物園で人は獣でもあるこ
とを感じる。
こうしたことを大事にしていかないと、この世は死の悲しみに覆われてしまうだけだと。
死もまた、自然そのものであることを受け止め、悲しみにくれるのではなく、あらためて生
ききるまで生きることを覚悟することなのだ、と。
そしてもう1つ、遺品を整理し覚悟したことがある。
それは、できるだけ、少なくシンプルに生活することを。
生きていくために、それほど多くのモノはいらない。