【朝刊と夕刊】
5年ぶりで新聞を取った。
ネットでの電子新聞ではなく、紙に刷られたニュースペーパーを、である。
横浜へアトリエを移したのを機に、新聞購読を止めた。
現在進行形の情報なら、ヤフー・ニュースでほぼカバーできるし、フェイスブックのライン上で流れる情報からも日々、関心度の高いニュースも分かる。
5年間もの間、新聞を取らないことで困ったことは、正直なところほとんど何もなかった。
実感として、情報取得の遅れを感じたこともなかった。
むしろ、読み終わった後、新聞から古(新聞)紙になり、気が付くと山と積まれたその処理に頭を悩ませることもなくなった。
購読を検討するため、料金を調べた。
1ヶ月の購読料は、朝日新聞・読売新聞・毎日新聞は朝夕刊セット価格で4,037円、日経新聞は朝夕刊セット価格で4,509円。
決して安くはない。
それなのに、なぜ新聞を取ってみたくなったのか・・・
一言で言えば、SNS疲れと、今更ながらではあるが、最近のTVの報道番組にうんざりしたからである。
日々、取るに足らない雑多な情報ばかりが一方的に押し付けられ、そして垂れ流し続ける。
考えてみれば、不思議な時代である。
ボクたちは、いま無関心の時代に生きていながら、これほど大量に他人の、しかも、どうでもいい情報に囲まれている。
その気になれば、その個人を特定し、あらゆる情報を取り込むこともできる。
しかし、それでいて、本当のところはほとんど何も知らない。
ボクは、自分自身面倒くさい性格であることを承知している。
時々こうして書いてみて、なぜ、悶々としているのか、その理由を知り、確認する作業をしている。
そして、なるほどSNSやTV情報に対する嫌悪や辟易さは理解できた。
それにしても、なぜ新聞がいいと思ったのか。
そもそも、媒体のもつ恣意性(自分たちに都合のよい言葉遣い)は新聞とて五十歩百歩ではないか。
どのようなメディアであっても、そこに集う人々が形成するものである以上、どんなものであれ偏りを持っている。
もはや基準となる情報など、本当の意味ではどこにも存在しないのだろう。
近年、新聞崩壊が言われて久しい。
それでも、新聞が(だからこそ)生き残る、それなりの意味があるはずだ。
再度、新聞を取ってみて分かったことがある。
ボクの支持理由を3つ。
1.一覧性がある。
新聞をめくり、見開きページから飛び込んでくる記事は、知りたいことばかりではなく、思いもよらない出来事や、いままで知らなかった言葉に出会える。
これが、楽しい。
2.紙面が限られている。
朝刊紙面は30面まで限らている。
だからこそ、どんな情報を載せるかという編集作業がある。
編集するということは、そこに価値判断が生まれる。
一方で、偏りも生まれるだろうが、なぜこの記事が掲載され選択されたかを考えながら読むことは、時代を読み解く訓練になるように思う。
3.歴史がある。
日本で最初の日刊紙は、1870年「横浜日日新聞」これは現在の毎日新聞。
1874年「讀賣新聞」そして、1879年「朝日新聞」が創刊。
140年以上の歴史を有していることになる。
(ちなみに、1996年「ヤフージャパン」、2008年「フェイスブック日本版」インターネットはおよそ15年から20年の歴史、テレビは1953年放送スタート開始で、およそ60年の歴史である)この間、印刷技術はもちろんのこと、様々な改良や工夫
(見やすさ、読みやすさ、構成など)が加えられ、その叡智の結晶が、今日の新聞のカタチである。
さて、今回いろいろ考えた末、父の代から取っている毎日新聞にした。
なんといっても、なにげなく毎朝そばにある安心感がいい。