第991号『投票前に考えたこと』

来週4月9日(日曜日)は統一地方選挙の投票日である。岸田政権にとっては、安倍元首相が銃弾に倒れた参議院選以来の大きな選挙戦となる。しかし、これでいいのかと思うほど、ほとんど話題にもならず静かに進行してしている。国民はもう選挙なんか興味もないし、そもそも行くべきところでもないとさえ思っているかのようだ。

こうした状況を定着させたのは、第二次安倍政権の約7年8カ月だといっても過言ではない。この政権が日本の民主主義の内実を変容させてしまった。選ばれた為政者が白紙委任されたとでも思っているかのように、説明責任を果たさず身内のみで都合のいいように決める政治を行使してきた。

理屈としては選挙は経ているし、曲がりなりにも言論の自由もある。それでもそのいかがわしさは何かといえば、その民主主義が「決める人を決める」ところで止まっているからだ。いまや、議論をするための対抗軸も抵抗力もほぼ無い。

かつては、政権派閥に対し与党内派閥がそれなりの対抗軸の意見が存在していたが、小選挙区制になりそれも機能しなくなった。加えて野党も報道も抵抗力はない。そもそも、重要な政策転換はそう簡単にはできなかった。内閣法制局の人事に手を突っ込んで替え、安全保障関連3文書の改定では国会の議論もないまま閣議決定し、その後首相が米国に説明して、既成事実にしてしまった。なんとも、国民と国会を傍若無人に踏みつけにしたやりかただ。この安倍内閣ほど、主権国民とその象徴たる天皇を蔑ろにした内閣はない。個人の自由・平等・人権といった、敗戦という大きな代償をもって手にした価値だけではなく、国家主権・愛国心、そして羞恥心といった保守主義や国家主義が大切にしていた根本原理まで放り投げている。しかし、この仁義なき非礼な遣り方に対して、僕たち国民の反応は極めて鈍感である。

内閣はもちろんのこと野党もメディアも、その時々の気分と空気が反映された世論調査のその支持率にしたがって動いている。その結果がいまを形成している。

そもそも、これまで僕たち日本人は自らに約束をし、決まりを作ることをほぼしてこなかった。振り返ってみて、古代より日本の政治的な統治は何をもって正当化されてきたのか?七世紀に律令制を導入したとき、これを「天皇」に帰すと決めて以来、ずっとその遣り方を踏襲し転用することで済ましてきた。以後、戦国時代そして江戸時代を通しても天皇は廃絶されなかった。自分たちで新たなルールと約束を作ることをしなかった。それはなぜか?リスクをとることを恐れたからだ。だから、徳川慶喜は大政奉還した。こうして因果がめぐり、戦後の米国従属と昭和天皇の責任放棄の果に(政治的な抑止力がないことは自明であるにもかかわらず)現行皇室にお鉢が回っている。こうしてみると、戦後民主主義だけではなく、明治以降の立憲君主という名の国家主義も、その内実は付け焼き刃にすぎなかった。

岸田文雄首相は首相に就いた当初は、安倍政治から変わったと見せようとした部分もあったが、実際には政治的な手法は安倍政権とまったく同じだ。選ばれた為政者が→白紙委任されたと思って→説明責任を果たさず→身内のみで都合よく決める。こうして、従来の方針を大きく転換する場合でも、なんの躊躇も抵抗感もなく行っている。

もはやどんな善悪の基準も曖昧模糊としたこの国で、第二次世界大戦での多くの犠牲を経て手にした日本国憲法(いまや風前の灯火であるが)の存在に、いまいちど目を向けてみたい。1946年11月3日、日本国憲法が公布されたあの時、日本人は自らになにを約束し、何を決まり(ルール)としたかを。僕はいま、投票前にそんなことを考えている。

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