第105号『学ぶことの楽しみ』

ここ数年、薄っすらと気は付いていたが、その輪郭も曖昧なまま放置し、目を逸らしてきたことがある。
そのことをはっきりさせたいと思った。
そして、そのきっかけが欲しかった。

地元にある単科大学が主催する公開講座をミニコミ誌で見つけ、申し込んだ。
先週の土曜日、その大学の講義室で受講した。
テーマはマーケティングである。
なんだかワクワクしドキドキした。

通常、仕事を通して様々な事柄を学ぶ機会は多い。
しかし、それが体系的かといえば、はなはだ心もとないし、極めて表層的な付け焼刃の理解でしかない。
しかも、知ったかぶりを決め込んで、冷や汗をかいている自分に出会うこともしばしばである。

例えば、プレゼンテーションで「ターゲットとは誰のことなのか」とか「市場とは何か」といった根本的なものを欠落したまま「周知のように」とか「言うまでもないことだが」といった文脈で語り、論旨を展開していることに気付き、その項目をなるべく早く終えようとなんだか妙にあたふたとしている。

そして、その場を過ぎるとまた、「知らない」ことを「知らない」まま放置している自分がいる。

では、なぜ私は「知らない」まま、済ませてこれたのか?

面倒だったからか?
あるいは怠惰だったからか?

そのいずれも違うと思った。

実は、知らずに済ませようと努力していたからである。
それも積極的にである。
厳密にいえば、「知りたくない」と思っていることを知りたくない自分がいたからである。

つまり、無知は怠惰の結果ではなく、むしろ勤勉な努力の産物だった。

私はいまもっと学びたい。
それは大きな「解」を得るためではなく、様々な「問い」を発することができる自分になるために。
そして「何を知っている」かではなく「何を知らないのか」を問うことを楽しみたい。

「豊かさとは何か」「幸せとは何か」「老後を生きることの意味とは何か」。

仕事も遊びも「問い」というテーマがあるからこそ楽しいのである。

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