先日、機会がありGINZA SIX 地下3階にある観世能楽堂にて、能の「船弁慶」を観た。銀座におけるインバウンドのメッカのような商業施設の地下に、見事な能楽堂があることは、あまり知られていない。この「船弁慶」、義経が兄頼朝との不和から静御前や弁慶を伴って西国へ落ちるという道行きのお話。物語の流れやテンポもよく、能の入門編としては比較的わかりやすくて楽しめる作品だった。
さて、能は室町時代、観阿弥・世阿弥らによってほぼ現在の姿になったという。それは、美しい言葉と、無駄のない削ぎ落とされた所作と舞によって進行する舞台。「能」というタイムカプセルに乗って数百年前の時代を旅するような気分になった。
もともと、能はゆったりとしたものではなく、演者と演者が競い合う激しいものだったと聞く。世阿弥は「風姿花伝」のなかで言及している。自らのレパートリーを持ち、調子が乗ってきたら他を圧倒せよ。さらに、オリジナルな表現のない演者は、兵器のない軍隊のようなものだとも。まさに「風姿花伝」は一種の兵法の書である。世阿弥は断言している。花とは観客の心を感動させるもののことである。「花と、面白さと、めずらしきと、これ三つは同じ心なり」と。世阿弥が60歳を過ぎて書きあげた、能の芸術論『花鏡』にはこうも記されている。
”しかれば、当流に、万能一徳の一句あり、初心忘れるべからず この句、三箇条の口伝あり 是非の初心忘れるべからず 時々の初心忘れるべからず 老後の初心忘れるべからず”
人生には、いくつもの初心がある。若い時の初心、人生の時々の初心、そして老後の初心。それらを忘れてはならないと。
「初心」とは、これまでに経験したことのない事態に対応するための方法であり、試練を乗り越える時の戦略や心構えのことである。例えば加齢という事実。この限界をどうやって乗り越えていくのか。老いに向かって生きていく中で、その時々の工夫をし、自分なりの花を咲かせなさいと。老木に咲く花こそ、凛と輝く。そう、世阿弥老師は諭している。
師の諭しを、自らのことに置き換えてみるならば、「しすぎないことではないか」と捉えている。過ぎたるは猶及ばざるが如しである。欲張りすぎて、仕事の楽しさや質を落とすな。トレーニングをしすぎて、怪我をするな。そして、自分も相手(仲間であれ家族であれ)も拘束しすぎないこと。ご機嫌な関係でいるためにも互いに縛らずそれぞれの持てる可能性と力を解放してあげること。
”老後の風体に似合ふことを習うは、老後の初心なり”
老いてこそ、ふさわしい技芸というものがある。初心とは、その時々の年齢と場所に応じた戦略的野心のことだ。それに挑むべきだと。およそ600年ほど前、能の世界で生き抜くための作法を説いた戦略本『風姿花伝』で世阿弥は、そう説いている。この夜、僕は「幽玄」の舞台を観ながら、あらためて初心に帰った。