第1072号『モネ睡蓮のこと』

先月、友人夫妻から缶入りのお菓子をいただいた。缶の図柄には睡蓮が描かれている。国立西洋美術館で、今週11日まで開催していた『モネ睡蓮のとき展』のおみやげ。僕も観に行かねばと思いつつ、行きそびれてしまった。なんだかとても残念な気持ちになった。そして、20年ほど前の思い出が蘇った。

5月、雨混じりの空模様。その日の朝、僕はNY53番街西11番地、改装されて間もないニューヨーク近代美術館(MOMA)にいた。出張先の会議は午後からで、それまでの時間をMOMAで過ごすことにしたからだ。NYラガーディア空港から、グランドセントラル駅近くのホテルにチェックインし、荷物を部屋に放り込む。歩いてもおそらく30分ほどの距離だが、それももどかしく、ホテルの前からイエローキャブをひろう。失敗した。以前とかわらない交通渋滞である。ともかくもアップタウンへと向かう。しばらくすると、右手に、アルパチーノが偏屈な盲目の退役軍人役を演じた映画『セント・オブ・ウーマン』で、見事なタンゴを披露する舞台となったウォルドフ=アストリアホテルがみえる。さらに車はパークアベニューを直進し、53番ストリートとの交差点を左折、そのまま進み5番街を横切る。セント・トーマス教会の尖塔をみつけたらもうすぐMOMAだ。

タクシーをおり、チケット売り場へと向かう。すでに入場を待つ列が出来ていた。僕は大好きなアンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』、ジャクソン・ポロックの『ワン(NO.31,1950)』そして、クロード・モネの『睡蓮』が観たくてウズウズしていた。そんな気分は僕だけではないと感じた。周囲から、なんともいえないワクワクした高揚感がたちのぼり、ざわめきとして伝わってくる。列にならび開場を待つのもまた楽しい。

入場してすぐ、巨大なモネの『睡蓮』が出迎えてくれる。だれもが足を止めずにいられない。そして、しばらくこの絵の前に佇んでいると、なんともいえない浮遊感に襲われる。まるで自分が水面すれすれのところに浮かび、その周りを睡蓮に囲まれているように感じる。そして、身動きが出来ないくらいの陶酔感を味わう。

『睡蓮』の絵に近づいてみても、そこに花や葉など具体的になにかが描かれているわけではない。ただ茫洋としたタッチと色の痕跡があるだけだ。しかもなんの力みもない。まるで水墨画のようにも思えるそのタッチから、なぜこれほどまでの臨場感が生まれてくるのか分からない。そして、そこには何か別の次元へ移行しようとするエネルギーのようなものも感ずる。内容と形式の逆転。前提と結果の転倒。具象から抽象へ。言うなれば、新しいものを生む時、それまでの概念を打ち破りすべてがフラットになる瞬間があるのではないか。座標の原点、すなわち零度の位置。ここに立つことができたクリエーターだけが作り出すことのできる境地のようなものを。

晩年、モネは自宅に池を造り睡蓮を栽培し、春から夏にかけて戸外でそれを描き、秋から冬にかけてアトリエで完成させたという。なぜ、そうまでして描き続けたのか。それは、移ろい行くものの、その一瞬をキャンバスに留めてみたいという野心と、永遠という時間を手に入れたいと願う老画家の想いだったのではないか。

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