小さい頃、母からことあるごとに言われた教えがある。”他人からしてもらいたくないことは、自分も他人にしてはだめですよ”と。出典は論語、「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」と記された原理原則である。
先日、村上龍の秀逸なエッセイを読んでこの原理原則を思い出した。引用する。
”忘れることのできない写真がある。それは大戦前のドイツでユダヤ人たちがひざまずいて通りを歯ブラシで磨いているという写真だ。その人物がある宗教に属しているというだけで、その人物の人格や法的な立場とは関係なく差別するというのはもっとも恥ずべき行為だが、わたしたちは立場が危うくなるとそれを恥だと感じなくなる。わたしはどんなことがあっても、宗教や信条の違いによって、他人をひざまずかせて通りを磨かせたりはしたくない。それはわたしがヒューマニストだからというより、そういったことが合理的でないというコンセンサスを作っておかないと、いつかわたしがひざまずいて通りを磨くことになるとわからないからである。わたしたちは、状況が変化すればいつでもマイノリティにカテゴライズされてしまう可能性の中で生きている。だから常に想像力を巡らせ、マイノリティの人たちのことを考慮しなくてはならない。繰り返すがそれはヒューマニズムではない。わたしたち自身を救うための合理性なのだ。”(『恋愛の格差』青春出版社)
有る無しで言えば、見境い、分別、良識の類は、特段、大人の振舞いでもたしなみでも無い。強いて言うならば、相互に異なった性格、環境で生まれた人間同志が社会で供に暮らして行くために必要な便法であり、相互の自由を認め、生命を尊重するうえでの不可欠な人間の知恵である。それを平たく言えば共通感覚つまり常識=コモンセンスという。昨今、この常識を持ち合わせていない男たちが最高権力を持ち、自らの主張を恐怖と恫喝をもって強引に押し通そうとしている。結果、分断と戦争とジェノサイドが始まっている。明らかに世界は五里霧中へと突き進んでいる。