第12号『捨てる技術を捨てる』

祖父は農地開放でそのほとんどを失ったが、それでも豪農の末裔としての恩恵を受けていた。 そして、趣味に生きた人でもあった。 とりわけ日本画と津軽三味線には後年そのほとんどの時間を費やしていた。

昭和30年代まで、津軽地方では三味線を手に家々を回る旅芸人がいた。 門付け(かどづけ)と呼ばれていたと思うが、物乞いの人たちと というレッテルが貼られ、蔑みの対象であった。 祖父は時折そうした人々を家の離れに数日宿泊させ、もてなした。 それは篤志家としての慈悲などではなく(少しはそんな気分もあったかもしれないが)彼の趣味だった津軽三味線の手解きをしてもらう事が目的だった。 そして夜には村の人たちを集め自分も参加しての演奏会をしていた。 ぼんやりとした記憶となってしまったがそんな幾人もの芸人のなかに特別大きな音を出し、早弾きの目が不自由な演奏者がいた。 それが高橋竹山であったかどうか今となっては確認するすべもない。

学生時代、渋谷ジャンジャン(これもすでに無くなっていますが)で、 かなり知られ、ファンも多かった竹山の演奏会を聴く機会があった。

演奏の合間、目が不自由で貧しく、津軽三味線以外自分にはなにもなかった、だから迷うことなくこの道を歩けたと自らを回顧していた。 多くのものを与えられなかった幸せ。 シンプルだが分かりやすい、そして強い。

しかし今ぼくたちはそんな風にシンプルには生きられない。 そこそこ豊かで安全でそしてコンビニエンスなモノとサービスに埋もれている。 だから賢い消費者となり選択眼をもつことが重要だ。と、 しかし賢い選択などできるはずがない、そもそもこれまでその基準も根拠も持ち合わせていないのだから。むしろその基準や根拠を捨ててきたわけだから。 それゆえ多様な選択枝の中から何を選ぶかではなく何を捨てるかという消費の方法のみがクローズアップされることになる。 そうしてみるとテレビ番組で大食いという過剰な消費をショーにするのも 実は捨てる技術の1つの提示なのかもしれない。 それは金持ちが無人島で保証されながらサバイバルバカンスを楽しむという風情に近い。

国家意識の無い役人と信じられない政治家のために税金を使い。わけの解らない食べ物や、必要も無いサービスに囲まれた豊かさも1つの方法として有効で あったのだろうがそろそろ自分たちなりの根拠や基準が必要なのだという必然 が生まれてもいいころではないか。

追伸
ファンサイト実践法による有機野菜と卵の「東北牧場」のwebサイトを先日 サイトアップしました。 農業というとても根源的なテーマに取り組めたことに感謝しています。 そしてこの仕事を通していくつか感じたことがあります。 率直にいうと(こう言う時僕の場合大概暴言となることが多いと友人に 指摘されたことがありますが・・・)

不愉快と思えるいくつかのことがら、例えば

安いがゆえに飽食し、山のように廃棄される食べ物。 出所もわからずいつも安全に疑問をもちながら口に運ぶ不安。 目的もプライドも持てず国からの援助をあてにしている農業従事者。 そしてレストランや電車の中で目にする礼儀作法の知らない親と子。

食の輝きとプライドを取り戻すことでこの国の半分位の問題が解決するのではないかと思えるのです。

説教や薀蓄を語るつもりはありません。 「東北牧場」の野菜と卵の素直なおいしさをそしてそのプライドと輝きをお届します。

いのちのやどる野菜と卵ぜひ一度じっくりと味わってください。

「東北牧場」はこちらから
http://www.tohoku-bokujo.co.jp/

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