伯母の家は、弘前公園の裏手、五十石町にある。
小学生のころ、正月や観桜会など、晴れがましい日に父は僕らを連れ、伯母の家の遊びに行くことが、しばしばあった。
僕にとっても、それはとても嬉しい出来事だった。
理由は2つ。
1つ目は、伯母の手作りの特製パウンドケーキを1切れいただけること。
2つ目は、これもまた、特製の梅酒をグラスに少量いただけることだった。
こうしたご馳走もお目当てだったが、なぜか伯母とは妙に気が合い、遊びに行くことが楽しかった。
故郷、弘前はもともと津軽藩の街である。
したがって、町名も、いまだにその時代のものがそのまま残っている。
鍛冶町、桶屋町、寺町、百石町、五十石町等々という具合にである。
五十石町は藩主に仕える下級武士に対し、米で与えられたお給料の高が、五十石扶持の人たちが集まる町である。
身分制度がそのまま町名として冠されているのだから、いま考えてみると、随分と合理的かつ乱暴なことである。
ともあれ、戦前のそんな身分制度と下級とはいえ、武家の仕来たりがまだ色濃く残っていた時代に、伯母は養女としてその家に身を置いた。
僕は高校時代の一時、この家に下宿した。
それは、この古色蒼然とした武家屋敷と、伯母が焼くパウンドケーキの美味しさに惹かれたからだが、それだけではなかった。
それは、伯母から聞く話しがとても魅力的だったからだ。
ある日、そのパウンドケーキをいただきながら伯母がポツリと話してくれたことがある。
伯母の若かりし時の話である。
上京し、自由学園でのことや、この武家屋敷の一角でダンス教室を開いていたことや、駆け落ちをしたことがあることまで。
モダンガールであったことは父から聞き、承知していたが、彼女の激しい生き方にあらためて驚いた。
伯母が癌で亡くなる1,2年前のことである。
なんとなく、気の合う高校生の甥っ子にほんの気まぐれで話したくなったのかも知れない。
女性が、本当に自由に自分の意志を遂げることの困難な時代に、それでも何かを求めて生きた伯母の気持ちがいまなら少し理解できる。
伯母が繰りかえし話してくれた、自由学園の創設者であり、婦人雑誌「婦人之友」を創刊した羽仁もと子先生のことばが印象に残っている。
「望みを持って努力すること、それ自身が、すでに幸福。」
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皆様
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
新しい年を迎える度に、それなりに小さな目標を掲げて参りました。
しかし、今年、やるべき目標がこれほどまで明確な時は他に思いつきません。
勝負しなければいけない年なのだと自覚しています。
さて、その目標とは、
1つは、11月、bjリーグ参戦の大分ヒートデビルズの開幕戦までの様々な作業。
そして、もう1つ。
4月、3年目の決算を終え、4年目に入るファンサイトを組織化するための準備をすることです。
皆様に助けられ、なんとかここまで来ました。
さらに精進する覚悟で、これからも仕事に望みます。
どうか、さらなるご支援のほど、よろしくお願いします。