第135号『哀れな国』

怒りや悲しみを伝える時、むしろその感情にもたれ掛からず、極めて客観的に言及したほうが沸々と湧き上がる。
だから、27日、朝刊の記事をそのまま記載する。

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日本国籍がないことを理由に東京都の管理職試験の受験を拒否された韓国籍の都職員女性が、都に200万円の賠償などを求めた国籍条項訴訟の上告審判決が26日、最高裁大法廷(裁判長・町田顕長官)であった。
判決は「受験拒否は法の下の平等を定めた憲法に反しない」と初判断を示し、都に人事政策上の幅広い裁量権を認めた。
そのうえで、都に40万円の賠償賞金を命じた東京高裁判決(97年11月)を破棄し、原告の請求を棄却する逆転判決を言い渡した。
原告の敗訴が確定した。(毎日新聞朝刊 原文まま)

原告の在日韓国人、チョン・ヒャンギュンさんは高校時代、成績優秀だったが岩手県の実家が貧しく進学をあきらめ、就職活動をするも、「日本人ではない」ことを理由に断わられ続けた。
「白衣の天使なら国籍は関係ないはず」と高校の先生たちは手分けし100校以上の看護学校に紹介文を書いたが、いずれも「前例がない」の返答。
単身、神奈川県の看護学校に飛び込み、ようやく入学を許される。
88年に保健師資格を取得。
その年の4月、東京都初の外国人保健師に採用される。
93年に主任となる。
94年、上司の勧めもあり管理職試験の受験申込書を提出するが「あなたは受けられない」との返事が返ってきた。
警察官など、公権力を直接行使するような職務ではなく、保健師という職種をである。
「後ろに続く人のために」悩んだ末の裁判だった。

そして、闘争10年、その夢は砕かれた。

以前、村上龍が女性月刊誌『SAY』に連載していたエッセイを女友達から紹介され、なるほどと思ったことがある。
少々長くなるが引用する。

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マジョリティというのは相対的なもので、絶対的なマジョリティに属している人間など誰もいない。(中略)わたしがマジョリティを嫌悪するのは、真の多数派など存在しないのに、ある限定された地域での、あるいは限定された価値観の中でのマジョリティというだけで、危機に陥った多数派は少数派を攻撃することがあるからだ。(中略)
忘れることのできない写真がある。
それは大戦前のドイツでユダヤ人たちがひざまずいて通りを歯ブラシで磨いているという写真だ。
その人物がある宗教に属しているというだけで、その人物の人格や法的な立場とは関係なく差別するというのはもっとも恥ずべき行為だが、わたしたちは立場が危うくなるとそれを恥だと感じなくなる。
わたしはどんなことがあっても、宗教や信条の違いによって、他人をひざまずかせて通りを磨かせたりはしたくない。
それはわたしがヒューマニストだからというより、そういったことが合理的でないというコンセンサスを作っておかないと、いつかわたしがひざまずいて通りを磨くことになるとわからないからである。
わたしたちは、状況が変化すればいつでもマイノリティにカテゴライズされてしまう可能性の中で生きている。
だから常に想像力を巡らせ、マイノリティの人たちのことを考慮しなくてはならない。
繰り返すがそれはヒューマニズムではない。
わたしたち自身を救うための合理性なのだ。(『恋愛の格差』青春出版社)

恐らくこの時、ユダヤ人を迫害したドイツ人たちは、「ドイツ人だから」という理由で、ひざまずいて通りを歯ブラシで磨かされている自分の姿を想像する力が欠落していたのであろう。
この言を借りるならば、町田裁判長をはじめ今回の裁判官たちは「国籍が違うから」という理由で、努力が報われない自分の姿を想像することなど皆無であっただろう。

閉廷後の会見でチョンさんは「哀れな国ですね。世界中に『日本に来るな』と言いたい。日本に来て働くのは、税金を納めながら意見を言ってはならない『ロボット』になることです」と、この裁判を痛烈に批判した。

この裁判の意味は何だったのか。

今日、国籍の違う人たちがこの国を支える重要な役割を果たしている事実を無視したばかりか、共に生きるという合理性からみても、相手に『ロボット』を強制することからは、もはや、何も始まらない。

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お知らせです。

2月11日(金)はお休みします。
次回、ファンサイト通信136号の配信は2月18日(金)です。

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