食べることは、生きることだ。
映画『硫黄島からの手紙』を観て、改めてそう思った。
ほんの60年ほど前、この国は日々餓えに苦しみ喘いでいた。
いまは、食べたいときに食べたいものが、ほとんどなん のストレスもなく手に入る。
ありがたいことだと思う。
いまある社会の姿とは、少なくとも基本的には、それぞ れの人間の個人的な事情からしか眺めることのできないものである。
ゆえに、大局的なもの言いや、俯瞰的な見解には身構えるし、そうした言動から常日頃なるべく遠くに居たいと 思ってもいる。
だから、大言壮語なことを言うつもりもないし、今日の飽食を笑う資格も僕にはないが、それでも時々苦々しく、居たたまれない気分になる。
例えば、期限切れの材料でこしらえた菓子を平気で並べる食品メーカーの自堕落さや、食べ物をおもちゃのよう に扱うTVの娯楽番組や健康番組を制作する側と、それを観て踊らされている人々の愚鈍さを。
有り体に言えば、食べることは「エンタテインメント」と同義なのだと括ってしまえば民主的で、摩擦もなく、 道理に適った欺瞞を丸呑みさせることであり、このくらい、たやすいことだと思っているのではないか。
「納豆」を巡る右往左往を見るにつけ、この感を一層強くした。
数日前の夜、僕がスーパーで見た光景である。
売り場から納豆がすべて消え、レジの係になぜ納豆がないのだと詰め寄る人までいた。
何が起こっているのか、その時はわからなかった。
しかし、ことの事情がわかり、あまりの荒唐無稽さに暗愚りとした。
新聞報道に書かれていたいくつかの論評のなかで、納豆には血流をよくする働きがあるナットウキナーゼの 成分を発見した倉敷芸術大学、須見洋行教授のものが秀逸であった。
曰く、どんな食品であれ食べて痩せるというものであれば、それは毒である。と。
それにしても、あの硫黄島で英霊たちが食したアルミ ニュームのカップに注がれた草汁はどんな味だったの だろう。
いまや、僕たちはその味に戻ることも、知ることもできない。