ここ2週間ほど、ツアーサービスを展開するJ社のファンサイト制作ため取材を続けている。
対象は50歳以上の十数名。
ツアーを体験した方々にインタビューした。
口々に「楽しかった」「美しかった」「美味しかった」「感動した」といった、言葉にすれば凡庸で通俗的な体験談で埋め尽くされた。
しかし、不思議なことに、この方々の体験談を聞いていて、徐々に自分もそのツアーに参加したくなった。
彼らの感性と心情が発露した言葉として響いてきたからだ。
さらにもう一つ、納得させられたことがある。
“行動を決断した”という事実に対する確固とした自信。
それは、体験者の方々に共通していることでもあった。
では、自信を生んだ決断とはどんなものだったのか。
それは、つまりヤルかヤラナイか、YesかNoか、と言えば、ヤル、であり、Yes、である。
ヤラナイ、Noと答えれば、ただ元の地点に戻るだけのことである。
一方、ヤル、Yesと答えれば、次のヤルかヤラナイか、YesかNoか、へと移行する。
当然ながら再び、行動への決断が問われる。
こうして、幾つものYesを積み重ねた結果としての「楽しかった」「美しかった」「美味しかった」「感動した」という言葉なのだ。
論理が感性を追い払っている時代である。
小林秀雄は、『無情といふ事』のなかで言及している。
「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ」と。
一知半解の徒を自省しつつ、動じない美しさに出会う旅がしたくなった。