「旧友が訪ねてくる。」
銀行での待ち時間、雑誌をパラパラとめくっていた。
その雑誌の星座占い欄にそう記されていた。
しかし、誰か来るでもなし、何事か起こる気配もなく日々過ぎていき、星座占いの記憶も薄れていた。
積んでいた文庫本の一冊、井上荒野の『ベーコン』を読んだ。
なぜ、この作家のことを知らないでいたのだろう。
そう思うほどに巧い。
そして、井上荒野の父上が作家、井上光晴であることも知った。
さらに、ある場面が思い浮かんだ。
ドキュメンタリー映画『全身小説家』は『ゆきゆきて進軍』の監督でもある原一男の作品で、「作家、井上光晴」を追ったミステリアスな作品である。
その、『全身小説家』のなかで、癌で闘病生活をしている井上を、瀬戸内寂聴が見舞い訪ねる場面だ。
瀬戸内に同行する医者をなにげなく観た。
見覚えのある髭面。
医者は高校時代の友人、横内正道君の兄上だった。
高校3年の夏、画廊を借り仲間と展覧会を開いた。
数日、横内君の家に合宿して仲間と作品を作っていた。
ある日、局部が異常に痒くなった。
気が付くと仲間がそろって同じ症状である。
そのころ、兄上は弘前大学医学部の研修医として勤務していた。
誰が、犯人かを突き止めることはできなかったが兄上にお願いし、薬を頂き、なんとか事なきを得た。
心理学者ユングによれば、「コンストレーション=星座を作る」とは満天の星から特徴のある星を幾つか選び出し、糸で繋ぎ物語を組立て、自らをそこに投影し、役割を演ずるものだと言及している。
一見、無関係に並んでいるかに見えるものが、ある時、偶然の一致というカタチで意味あるものとしてその全体像を表す。
こうして、バラバラに起きた出来事が、実は人生という星巡りのなかで「意味あること」として位置づけられているのだ、と。
バラバラな記憶が繋がり、横内君と僕の共通の友人T君が逝って、もう6回目の冬が来ることを思い出した。
「旧友が訪ねてくる。」
してみれば、あの星占いは当たっていたのだろうか。
墓前に手を合わせ、久々に友と杯を酌み交わしたい。