第380号『長谷川等伯展を観た』

【会場入口にて】
【会場入口にて】

3月、東京国立博物館で開催されていた「没400年 特別展『長谷川等伯』」を見逃した。
暫くして、「長谷川等伯展」が京都国立博物館へ巡回されることを知った。

長谷川等伯は、1539年、能登七尾に生まれる。
はじめ、絵仏師として寺院に掛けられる仏画を描いていたが、30歳代に能登から京へと上洛し、絵師として本格的に活動をはじめた。
ここから等伯のたどった道程は、長く険しい試練の時が続く。
方や、後に最大のライバルとなる狩野永徳は、室町時代から続く絵師の名門、狩野派一族の御曹司として英才教育を受け、画壇に盤石の基盤を築いていた。
それに比べ、等伯は名門の出でもなく、後ろ盾があるわけでもない地方出身の一介の絵師でしかなかった。

しかし、頭角を現し始めたころの秀吉や、この時代のプロデューサー的存在だった千利休に見出され、狩野永徳の地位を奪い一躍、画壇の頂点へと登り詰める。
まさしく、絵筆ひとつ身ひとつ、一代で成し遂げた下克上だった。
この絵師がどんな絵を描いてきたのか、その変遷を観たい。
連休後半、矢も楯もたまらずに京都へ行くことにした。

嬉しいことに、会場は夕方だったこともあり、思ったより混んではいない。
今回の展示では、その時々の変遷と特徴がわかるよう7つの章に別れている。
圧巻は、なんといっても大胆かつ華麗なる世界を描いた、京都智積院所蔵 国宝「楓図壁貼付」と、枯淡かつ静寂の極み、東京国立博物館所蔵 国宝「松林図屏風」の対照的な名作を同じ会場で見ることができたことだ。
この、あまりに対照的な作品が同じ絵師の手によるものなのか。
ふと「楓図壁貼付」は秀吉を、「松林図屏風」に利休の移り姿が思い浮かんだ。

400年前、秀吉が、利休が、そして等伯が、それぞれに野心を燃やし、命を賭け、この京に生きていた。
矜持の光と諦観の影が織りなした時代、それが桃山だったのではないか。
会場を出ると、すでに日は暮れ古都の風がそよいでいた。

4件のフィードバック

  1. 私も東京で見逃したくちです。
    でも京都までも行けずで、残念です。

    ところでセンセイ、着物似合いますな!
    意外でびっくりしました!

  2. 豆さん、着物姿で京の街をぶらぶらしていると、なんだか街に溶け込んだように感じました。コスプレの気持ち良さが、少しわかるような気がしました。(笑)

  3. ほんと!カワムラさん着物がお似合いです♪
    実は私の以前勤めていたラジオ局が七尾にありまして
    5年ほど、長谷川等伯の番組を担当しておりました。
    松林図屏風を初めて見たときは鳥肌が立ちました。
    松林図屏風とよく似た風景が石川県の能登にはあります。
    その風景とダブらせながら、遅咲きともいえる
    30歳を超えてから上京する等伯の姿を想像すると
    なんだか野心が湧いてきます。

  4. あきりんこさん、なんという偶然!
    能登のその風景、是非一度拝見してみたいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です