大阪に本社のある葬儀会社の広報誌の仕事をしていたことがある。
その何回目かのゲストとして藤本義一氏にお願いした。
「あなたにとって理想のお葬式とは」、といった内容だったように記憶している。
いま考えるとなんと凡庸な企画であったことか・・・。
小一時間ほどインタビューが続いたがライターとのやりとりに熱がなく白けた雰囲気が漂った。
このまま終わると原稿ができないな。
思案した。
ふっと、藤本氏がフランキー堺の名演で知られる映画「幕末太陽傳」の監督、川島雄三のお弟子さんだったことを思い出した。
川島雄三は日本では数少ない喜劇が撮れる監督として、また同じ郷里の出身でもあり、好きな監督の一人でもあった。
大学卒業後、日活に入社した当時、小道具の小林さんという古参の方から多くの撮影所伝説を聞かせてもらった。
撮影所には実にたくさんの伝説があった。
例えば、昼からビールを飲む石原裕次郎のために撮影所の食堂にビール(昭和30年代はまだまだ高価なそしておしゃれな飲み物だった)を置くようになったことや、小林旭は生意気で皆にきらわれていた、ある日アクションの撮影場面でセットで作った屋根から屋根に飛び移るシーンでその足場をのこぎりで切りこみを入れられ飛び乗った瞬間セットが崩れたが、あいつは平然とそこから身をかわしたというような、言わばどうでもいいような類の話である。
そんな中の1つとして川島伝説もあった。
小児麻痺で片足を引きずるようにして歩き、撮影が始まるとほとんど食事もトイレに行くことすらせずセット篭りっきりになっていた。
だから、尿瓶を当時助監督だった今村昌平が持ち歩いていた。
しかも、撮影のない日はスタッフ全員を連れて花街に繰り出し、撮影が終わるころにはほとんどのギャラ(当時映画監督のギャラは今のレイトで換算すると1000万から2000万くらいだったと聞いたことがある)を使い切っていた。と。
あくまで伝説である。
したがって真実であっかたどうかはわからない。
元日活だったことを告げ、川島雄三監督の話に水を向けると藤本義一さんの対応が変わった。
シナリオを書くために過ごした監督との濃密な時間があったことを話され、彼との出会いがなければ今の自分はないと言い切っていた。
そして「別れがあるからこそ、もっともっと出会いを大切にしたい。」とも話してくれた。
インタビューの最後に、江戸前落語の好きな川島雄三監督が洒脱な江戸前口調で酔うと必ずいう口癖を1つ教えてくれた。
藤本君、
「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ。」でげすな。
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