先日、マグニチュード7クラスの首都圏直下型地震が、今後4年以内に70パーセントの確立で起きる可能性があるとの試算を、東京大学地震研究所の研究チームがまとめた。
最近では、地震雲や鯨の異常行動など、いつ起きてもおかしくない状態が近づいていると、多くの専門家や研究者もあちらこちらで言及している。
気持ちも行動も、どんどん内向きになり始めている。
気が付けば、出かけることにも積極的になれない。
外で食事することも少なくなった。
外出しても、なるべく早く帰宅する。
さりとて、打ち合わせや取材など、やらなければならないことも多々ある。
まして、自分だけ海外や沖縄あたりに逃げ出すことも出来ない。
これでは、仕事もろくにできない。
だから、なるべく触れず、考えず。
ジタバタしても仕方がない。
概ね、多くの人は、そう肚を括っていると思う。
しかしそれは、見て見ない振りを決め込むことではない。
どう準備し、運命を受け止め、受け入れのか。
おそらくは、ここが一番肝心なところである。
その日が来るにしても、来ないにしても、僕には、成し遂げるべき仕事も、守るべき人もいる。
だから、生きることからは降りられないし、簡単には諦めらない。
いまこそ、与えられた環境のなかで、日々いかに振る舞うのかが問われている。
自らが、ナチスの強制収容所を体験した、ユダヤ人心理学者、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』から引用する。
わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。
ヴィクトール・E・フランクル著 『夜と霧』より