もうすぐ、3月11日である。
あの日から1年、作業効率の悪さと遅さ、そして、リーダーの不在が叫ばれる。
新聞を開けば、子殺し、いじめ、殺人、不況、不正と日々、おぞましい事件ばかりが目につく。
この国も僕たちも、まるで、鳥餅に捕られ、身もだえる小動物のように、いまだ混沌とした状態のなかにいる。
もちろん、特に、復興を目指している被災地と、そこに暮らす人たちのためにも、リーダーの決断を期待し、作業効率の向上を願う。
そして、少しでも居心地のよい国なって欲しいし、僕らもその努力を惜しまない。
それでも、正直なところ、僕はこの社会が劣悪なものだとは思えない。
本来、世の中は特別、良くもならないし悪くもならない。
日めくりのように、日々、混沌と混乱が入れ替わり、変化しながら、たち現れるだけのことではないか。
有り体に言えば、この世は、もともと、劣悪なものなのかもしれない。
しかし、いかに混沌とし、混乱した世の中であっても、僕たちはなんとか生きていかなければならないし、生き延びることに拘泥する。
そこにある混沌も、混乱も、むしろ僕たちの心の写し鏡として、捉えることができないだろうか。
だから、これから、僕たちは、3.11以降の事実を痛みとして受け入れ、そして、矛盾も偽善も内包し、共に生きていくしかない。
できうれば、小さな約束を守るかのように、正直に、誠実に。