第469号『傾聴するということ』

【我ら、桜の下で語る民】
【我ら、桜の下で語る民】

幾つかの偶然が重なり、今月、複数の名刺交換会を兼ねた勉強会に参加した。

元々、こうした会は苦手で、ほとんど出たことがなかった。
理由は、名刺はたくさん手に入れることは出来るけれど、誰がどの名刺の方さえも分からず、結局、頑張っている自分の姿に自己満足するために参加しているだけではないかと、バカバカしくなったからだ。

今回も、以前とあまり変わらず、不毛で空虚なものになるのではないか、そんな懸念も持ちつつ参加した。

講師役の方のお話を伺い、簡単なオリエンテーションがあり、参加者全員でのワークショップを通して気付きと発見を得るといった内容である。
幾つかの設問があり、参加者が順番に意見を述べる。

何度か、こうした流れを繰り返している中で、気が付いたことがあった。
自分の順番になったら、どんなことを話そうかとそればかりが気になり、聞いているようなふりをしているだけで、他人の話しなどほとんど聞いていない自分がいることに。
これでは、会が終わったあと、何も残らなくて当然である。

なぜ、そうなるのか。
簡単に言えば、カッコいい発言をしたいと思っている僕がいるからだ。

では、なぜそうするのか。
・注目されたいから。
・自立した、個人として扱ってもらいたいから。
・敬意を払って欲しいから。

でも、これは決して、おかしいことではない。
この3つ、人間だからこそ持てる欲求である。
であれば、人を理解するには、注目し、自立した個人として、敬意を払って話しを聞く。
そうすれば、その人がもっとよく見えてくるはずだ。

意識を変え、参加している人たちの話しを聞き直した。
すると、一人一人の話しが聴こえてきた。
驚いた、自分にとって学ぶべきことがたくさんあることに。

これまで、なんと人の話しを聴いていなかったのかと反省し、身につけるための訓練が必要だと感じた。
さて、まずは妻との会話からトレーニングしてみようか。

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