いまもなお、その真贋が問われている一枚の写真がある。
写真のタイトルは「崩れ落ちる兵士」(1936年スペイン コルドバ戦線)。
ロバート・キャパ撮影、戦争写真としてフォトジャーナリズムの世界で最も有名かつ、
最高の写真だと言われている。
しかし、この崩れ落ちる兵士は本当に銃弾に倒れたのか、それとも演技なのか?
そもそもキャパが撮影したものなのか?
この写真をめぐって、さまざな論議が続いている。
キャパの『ちょっとピンぼけ』は、学生のころ読んだのか、友人の写真家、 故
牛腸茂雄から借りたのか記憶が曖昧だが、従軍カメラマンとして戦場での出来事
が意外なほど陽気に綴られていた。
その程度の印象しかなかった。
ともかく事の次第を確かめるべく、横浜美術館へとでかけた。
1936年7月にスペインで内戦が勃発、アーネスト・ヘミングウェイをはじめ欧米の多
くの作家やジャーナリスト、カメラマンがスペインへと向かった。
スペイン内戦を俯瞰的かつ大雑把に括れば、旧来の王権派とフランシス・フランコ率
いるファシストが手を組んだ右翼反乱軍が、正当な選挙によって誕生した共和国人民
戦線政府に攻撃を仕掛けた戦いである。
この戦いで人民軍は敗れ、ファシスト、フランコ政権が誕生する。
ファシスト対人民軍、こうした流れはイタリアでもドイツでも起きる。
22歳のキャパも義勇と野心を抱くカメラマンとして、この内戦に参戦した。
実はロバート・キャパは本名ではない。
名前は「アンドレ・フリードマン」という。
両親はユダヤ系ハンガリー人である。
1931年ブダペストに生まれたアンドレは、ドイツ・ヒトラーの餌食となったハンガリー
からフランスへと逃れ、レフィージ(故郷喪失者)となる。
当時、パリに住むカメラマンが本名ではなく芸名のように、アーティストネームをつける
ことは珍しいことではなかったと『キャパの十字架』で沢木耕太郎氏は言及している。
たとえば、キャパと同じ東欧出身の写真家であるハーラス・ジュラは「ブラッサイ」と
名乗ったし「マン・レイ」の本名はエマニュエル・ラドニツキーと言った。
キャパことアンドレ・フリードマン(フリードマンはダビデの子ソロモンの名に由来する)
という、いかにもユダヤ系だとわかる名前から無国籍風な名に変えたいという思いもあった
のではないか。
そして「ロバート・キャパ」という名前にまつわるもう1つの事実。
それは、フリードマンと彼の恋人であったドイツ人女性ゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホレリ
1910-37年、当時パリに住んでいた画家、岡本太郎の名から貰った)との共同共作による、
架空の写真家としての名前だった。
実は「崩れ落ちる兵士」はこのタローが、撮った写真ではないかと・・・
しかし、ゲルダ・タローはこのスペイン戦線で27歳という若さで亡くなる。
まるで、推理小説のようであるが、キャパも一切話をしないまま真贋は謎につつまれ過ぎた。
ゲルダ・タローの死後もキャパは憑かれたように戦地を駆け巡る。
そして、日中戦争では「うずくまる中国人女性」(1938年 中国 漢口)、ノルマンディー
上陸作戦での「波の中の兵士」(1944年 フランス ノルマンディー海岸)など、数々の
傑作を生んだ。
それは、アンドレ・フリードマンではなく、写真家ロバート・キャパに成るため、
自らとの戦いの日々だったのではないか。
1954年5月25日、インドシナ戦線で地雷を踏むまで・・・享年41歳。
「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展
2013年3月24日まで横浜美術館にて開催。